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天空の標 第十六話

第六章 交渉(一)

 カエルムの言葉に、大臣の眉がぴくりと動き、後ろに控えたロスは乗り出した身体をその場で止めた。発言した当の本人の表情は動かない。
「条件、とは何でしょうな」
 数秒間の沈黙ののち、大臣が重々しく口を開いた。僅かだが、隠しきれない動揺が混じっている。
「明日まで、どうしても国王陛下とお会いできないと仰るならば、いかんせんこちらもやることが無い。昨日今日のように始終城の中に留まるようにとのことでしたらなおさらです。何せ遊びに来たわけではありませんから、時間を持て余してしまっていけない」
 一呼吸おいても大臣が返事をしないのを見て、カエルムは話を続けた。
「特に無茶なことを求めようと言うのではありません。時間潰しに、第一には城の領地内の散策くらいはさせてもらいたい。美しい海が間近にある上にこんな見事な城の中にいて、部屋に籠ってばかりではもったいないので」
 ロスは主人の狙いが半ば分かってきた。この条件はこちらが言わずとも、誰かテハイザ側の案内をつけてのことだろう。中の人物を知るにはちょうどいい。
 大臣の応答が入る前に、それからもう一つ、とカエルムが付け加える。
「貴国の誇る書庫を見せて頂きたい。テハイザ宮と言えば、海洋を超えて国内のみならず国外の書物も多く集めておられたはず。やはり内陸の小国たる我らにしてみれば、海向こうの知識などは特に興味が絶えないので」
 テハイザ宮の書庫は国外にも有名だ。建国以来、数多くの知識人が海を超えてこの国を訪れ、様々な学識を大陸にもたらした。また日々の交易の中で海外から書を買い求める勅令を受けた商人までいるほどだ。それらをひと所に集めた広大な王宮書庫は、知の比喩として使われるほど国際的にも有名だった。
 意外な要求だったのだろう。大臣の眼に驚きの色が浮かんでいる。もっとも、長い眉毛に半分ほど隠れているので、どちらかと言えば瞳がはっきり見えるほどその眉が上げられたことで、彼の驚愕が分かるのだが。
「書庫ですか、いや、しかし……」
「何も貴国の機密文書を見せろとは思っておりません。興味があるのは貴国の文芸書や御伽噺なんかですね。私も若輩ですからそのあたりの勉強がまだ足りない」
 カエルムがあくまで邪心なさそうに述べるのを聞いても、まだ大臣は答えに迷っていた。早く決断しろよ、とロスは苛つくが、立場上、口を出すわけにもいかない。すると、カエルムがもう一言付け足した。
「もしこの城の方のお時間をお借りするのをお許しいただけるなら、どなたか監視につけていただいても構いませんよ」
 すると、それまで黙って大臣の斜め後ろに控えていた近衛師団長がそっと大臣に歩み寄り、その耳元で短く囁いた。大臣がゆっくり頷くと、近衛師団長も元々立っていた位置へ速やかに戻る。次に言葉を発したのは大臣だった。
「貴殿の仰る条件とやらを受け入れましょう。そして、お望み通り我が城の者を御二人の付き添いとして付けましょうとも」
 口だけ笑みの形を作り、大臣は止まったままの天球儀に視線を投げ、カエルムとロスをひと睨みした。譲歩しているのはこちらだというのに、あくまで自分たちを下に見ている大臣の態度に、カエルムさえいなければロスは相手に掴みかかっていたかもしれない。自分の位置からカエルムの表情は見えないが、その返答は、相当きてるな、とロスに思わせた。
「それはそれは、こちらが早く用事を済ませられればいいのですけれど、お手数をお掛けしますね。それでは、大臣様もあまり長くここにいらしてはお仕事に障《さわ》りましょう。早速、図書館などに行きたいのですが」
「まあ、お若いのにそうくこともありますまい」
 大臣は指を揃えた片手を前に出して制止し、近衛師団長に目配せをする。それまで自らの方から客人に発言することのなかった近衛師団長が、低いもののよく通る声で告げた。
「後から下働きのものを二人、客間に迎えに遣ります。彼等が案内致しましょう」
 近衛師団長の風態には大臣とは違う鋼のような冷静さと厳しさがある。彼はその鈍色の瞳で二人を探るように見てから、「では、お部屋へ」と述べ、天球儀のある部屋をあとにした。

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