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時の迷い路 第五話

第二章 始動(一)

 王女は午前の講義を受けているところだった。昼までの科目は政治経済と古典劇作法、そして歴史。勉強は嫌いではない。むしろどの教科も好きであり、得意でもある。ただ教師が還暦を超えた説教がましいしかめっ面の女性では、身を入れて聴く気も起きない。よほど蔵書室の記録書でもひっくり返していた方が面白いしためになるのに――そう心の中で愚痴をこぼしながら、王女は適当に教師の説明に相槌を打ち、帳面の上で羽ペンを遊ばせていた。
 先ほど教師の目を盗んで外の城門を見たら衛兵が交替していた。ということはあと少しで昼食である。今日の食事には南瓜のスープと林檎の蜂蜜煮があるはずなのである。
「我がシレア国創建当時の国の繁栄はまさしく初代の善政にあります。兄王子殿下と姫様は久方ぶりにお生まれになった王族のご兄妹ということで、言い伝えにあります『生まれ出づる光と還る光』と言われ、国政に期待が持たれておりますからしっかりと学んでいただかねばなりません」
 兄の手腕は確かだが、自分は凡人であるし光とか言われても、と口を挟みたいのを我慢する。どうして冗談一つも言わない教師に父も兄も耐えられたのか。
「そもそも初代の良策の最たるものの一つが国道の整備と言えましょう。そのうちこんにちまで伝わる重要策として我が国に道路が敷かれ、駅制が定められたのがおよそ国の創建後の……」
 そもそも本日の収穫の最たるものの一つが旬の食材と言えよう。そのうち昼食の重要品として我が城に南瓜が持ち込まれ、下拵えに出されたのがおよそ四時間半前、それが牛乳とくつくつ煮られ始めたのが朝の会議後のおよそ二時間前……。
「こうしてそれぞれの町を繋ぐ交通ができたということはすなわち、宿場町という形で町の繁栄にも……」
 こうしてとろ火で丁寧に煮られたということはすなわち、そろそろスープが一度裏濾しされてもう一度鍋に戻される。最後の仕上げに入る前に少し火を止めて甘みを引き出し、その間に発酵の終わったパンが窯に入るころ……。
 衛兵の交替は大体、正午の十五分前。交替の兵は昼の一時間ほど前から休憩に入り、皆より前に食事を済ませ次第、正規の昼食の時間に間に合うよう午前番の兵と交替する。鐘楼が鳴れば講義は終わり、王女は執務室の兄のもとに立ち寄って共に食堂にくだる。大抵は食事を始める前に諸官から午前の城下の様子、城で整理された事務的な事柄、午後の予定の確認など、執政に必要な諸々の話を聞く。普段なら王女と共に兄王子がそれらの事柄に耳を傾け意見を述べているが、今は兄が留守ゆえに、王女が代わりに一字一句漏らすことなく聴いておかなければならない。およそ十五分ほどとはいえ、かなり気の張る時間だ。
 しかしそうしたこまごまとした報告が終われば、城の厨房で腕利きの料理人が作った、素朴だが細部まで気配りの行き届いた美味な品々が運ばれてくる。空腹と脳疲労を満たし、五感を楽しませながらの歓談が始まる。政務の間は常に眉間に皺を寄せている老中たちが唯一、人間らしくなるひと時で、そんな城の皆が見られる王女の好きな時間であった。
 それがもうすぐ、と思えばつまらない講義も我慢して聴ける。それに昨今の城はまもなく始まる祭りの準備で忙しく、今日の午後は授業もない。あと少し耐えればいいだけだ。
「しかしながら交通網が発展してからというもの、たちどころに国外で話題になっていた書物や珍品が流入することとなり、我が国の学問的研究意欲を刺激したと同時に……」
 しかしながらどうにも退屈な話をする教師である。交通および科学技術の発展と諸外国との貿易問題の相関など、ここで聞かなくとも本を読めば分かるというのに。その分野で目下重大なのは、最近開発された新しい農作物品種の苗をどうやって気候の変化に耐えられる範囲で国外に持ち出し売り込むかであり、そのための最適な交易路と相手国から交換すべき品物なのだ。
 王女は窓の外に視線をやった。気持ちよさそうな天気だ。衛兵が欠伸をしているのが見える。城の物見台の方では、伝令の鳩も桟に近寄って落ちつかなさそうに動いている。恐らく飛び立つのを待っているのだろう。
 ぼうっと城から街まで広がる景色を眺め回す。なんともない光景、いつもと同じはずの秋の日。
 だが、何か違和感を覚える。
 東の棟の出窓に当たる日の光。庭師の手入れが行き届いた花壇に落ちる影……。
 何かがおかしい。
 王女の頭の中で鋭い警鐘が鳴った。
 反射的に時計台へと目を走らせる。
 背中に衝撃が走った。
「急いで時計台へ! 鐘楼の番の者は? 老中を集めて!」
 椅子を倒して立ち上がり、窓辺から衛兵に叫ぶとそのまま、王女は呆気にとられた教師の前を突っ切って自室の扉から廊へ飛び出した。

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