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安定は少しビターな味がする

 私たち人間は変化を嫌う生き物である。

 新生活が始まると、新しい交友関係だったり、新しい土地だったりに困惑して、ナーバスになってしまう。
 というのもその原因はいたって単純な話で、新しいことを脳が処理するためにエネルギーを使ってしまうからである。
 反対に、繰り返し繰り返し同じことをやっていると、脳が働くのをやめて体が勝手に動く、そして手順が簡略化されていく。
 それは確かにいいことではあるし、突き詰めれば職人にさえなれる鍛錬であり、経験の功績ではあるのだけれど、初心者だったころ、初体験だったころのあのういういしさが段々と失われていく感覚は、なんだか少し寂しい。

 「ジャネの法則」曰く、人間は二十歳ごろには人生の時間の体感半分を消費してしまっているそうだ。
 人間の体感時間が年を重ねるごとに減っていく理由は、人間がいきて行く中での新鮮味が失われて、心の動きが、要するに日々の体験の思い出が作られなくなっているからだ。
 小学生だったころは、確かにショッピングモールにいくだけでわくわくしたし、陳列棚を並べているだけで冒険のような心地がした。
 今はわざわざ買い物に行くまでもなく、欲しいものはネットで調べて商品をカートにぽちっとするだけの時代である。
 ご飯もいつもスマホ片手に、あるいは動画に集中しながら、もう食欲を満たすためだけの作業と化している節さえある。

 やっぱり受動的に与えられている情報はいけない。

 日々生きていても、味覚や触覚、季節の変わり目のような機微な変化も察知できるような感覚器官と、それらによる新鮮な情報は確かに与えられているのだが、その情報を左から右へ受け流しているだけのようで、自分のなかで一向に咀嚼してかみ砕けている自信がない。
 まるで、板書をとらずにただ講師の話を聞いているだけの授業のような人生だ。

 最近、全く自分のやってこなかったジャンルのゲームをやってみたりして、その時はもう何もかもが新鮮で、時間が忘れるほどその時はすごく楽しく、またその時の記憶も鮮明に残っている。
 だのに、今そのゲームをプレイしても楽しみこそすれ、あのわくわくは帰ってこない。
 どうしてなのか。
 私がそのゲームをプレイして、知識を得て、何が起こるかを完全に知っているからである。

 知識は私たちの感情をマヒさせる。
 知ることは素晴らしいことであり、勉強なんかもその代表例である。
でも、私たちは学ぶことで、感情を失ってしまう。

 私は不意にさみしくなって、今日どんなことがあったのか、誰と何をしたのか、夜にふと思い返してみたりする。
 すると、自分の辿った足跡が、ひどく大きく見えて、ああ自分はこんなに一日で経験したんだなと刹那的な満足感に浸ることができる。
 同時に、私は明日もやらなきゃいけないことがあるなと未来を憂いて悲しくもなる。
 どうしてだろうか、この皮肉は。
 知識も予測も推論も、私たちの生活を確かに物質的には豊かにしているが、代償として私たちは新しいことを脳で処理するのをやめてしまった。
悲しい存在である。人間。

ご精読いただきありがとうございました。
次回もまたよろしくお願いいたします。


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