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外の自分と内の自分、どちらも好きになりたくて

noteに言葉にしてることって、私にとって苦手な部分の整理で、時には自分の好きになれない部分を好きになるために言葉にしてることがある。

私にとっての外の世界は仕事とか療育や学校、幼稚園などの子ども関係で。

noteは私にとっては内なる世界で、私の外側からは想像もできないような繊細な部分。

そんな極端な自分を、両方とも愛おしいと思うための言語化。


こうあるべきという外側の私

私の外での顔って、小さな頃からの経験で「こうあるべき」と思って出してる自分なのよね。

社交的で、親しみやすい人柄で、その場の空気を大切にしながら会話したり。

ポジティブな感情は素直に表現して、相手の話は共感をメインに聞くような感じ。


今、オンラインで心理学を学んでいるのだけど、ユングのタイプ論を見て、ハッと気づいたの。


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そんな外の自分は外向的で感情型。

「多くの人に好かれるタイプ」

!!!

やっぱり。

私は社会で愛されキャラになりたくて、そのための素質を伸ばしてきたんだ。

だってね、そのキャラって生まれつきじゃないんだもの。

生まれつきのキャラは、多分内向的で思考型。

「周囲からは理解されにくい」


ああ、そういうことかって思ったよね。

私は社会に出て、人と仲良くしたい、人から好かれたい、上手くやっていきたいと思ったから、自然と「好かれる」ようなタイプでいられるように自分を作ってきたんだってことよね。

それが外の自分。


私ね、絶対に社内恋愛だけはできないって思ってて。

それは外の自分を完全に作ってるから、そんな表向きの自分を好きになる人とは上手くやれないって思ってる節がある。

それに自分も戦闘モードだからね。

私にとっての恋愛は癒しモードだから、外と内は完全に分けたいタイプなの。

だからね、外の自分と内の自分、両方が必要なんだよね。


両方とも愛おしいと思いたい

何で両方とも愛おしいと思いたい!なんて思ったんだろう?

外の自分が無理してるから?

内の自分が窮屈だから?

自分に問いかけてみる。


で、わかったの。

仕事で上手くいかなくて、家でも子育てで悩んでってしてるとね、外の自分も内の自分も否定してしまう自分がいて、苦しかったみたい。

だから、どっちの自分も愛おしいんだよって、自分に言い聞かせたかったのかな。


でも上手くいかないからって自分がダメって思わなくていいし、結びつけすぎよね。

客観的に見たら、子育ても仕事もそんなに上手くいってないわけじゃないし。

何でそんなに自分を否定したくなっちゃうんだろうね?

思ってるような周りの反応が得られないから?

もっともっと必要とされたい、みたいな気持ちが根底にあるのを感じるから、必要とされない自分は価値がない、みたいになっちゃってる?

どうしてあげたら、現実が上手くいかなくても、その現実と切り離して自分のそのままを愛おしいって思えるようになるんだろう?


自信とは自分を信じる力

自信がないからかな、上手くいかなくて。

そう思ったから、そんな自分に伝えたい言葉を考えてみる。


自信ってさ、「自分を信じる」って書くじゃない?

自分を信じるってどうするか知ってる?

自分との約束をたくさん守ってあげることで積み重なるらしいんだよね。


「私、自分が食べたいって思ったご飯を、たまには家族の好みを気にせず食べたいの。」

「一緒にいて心地よいって思える人とたくさん出会いたいの。」

「人の心がふるえるような、突き動かされるような、そんな何かを生み出したみたいの。」


そういう自分の心の声を聞いてあげて、それを叶えてあげる。

それの繰り返しなんだって。


「努力して頑張って結果を出すこと」を積み重ねることのように感じるじゃない?

それすると、結果でしか自分を認められなくなっちゃうのよね。

うん、それ、多分今の私。

で、今は何にも結果が出せてないように感じるから、自信をなくしちゃってるの。


でも子育てでちゃんと子どもに向き合ってるし、仕事だって続けていられてるし、健康に必要だと思うことを少しずつチャレンジしてみてるし、夫婦の時間を大切にできてるし、やることやってると思うのよ?

なのに自信がなくなるような感覚が抜けないの。


感覚の深掘り

何でかなーって、自分の感覚を深掘りしてて気づいちゃった。

私が子どもと向き合ったり、仕事を頑張ったり、夫婦関係を大切にしたりしてることって、

「そうすべきと思ってること、そうすれば幸せになれると信じてること」

なんじゃないかなって思う。


このニュアンス、伝えるの難しいな。

だって、家庭運営をする中でみんなで楽しく生活できたらいいっていうのは確かに自分が望んでることだし、夫と仲良くしていきたいってまぁフツーにそう思うし、生活のためにも自分のためにも仕事は続けたいって自然な気持ちじゃない?

フツーでしょ。

だからなかなか気づけなかった。


私ね、多分半分はそれを自分のノルマのように「今は」感じてるんだと思う。

あ、でもね、これって意識の問題で、現実がどうとかそういう話じゃないんだろうなっていうの、なんとなくわかってる。

現実が変わらなくても、意識が変わると世界が変わって満たされるって経験を何度もしたから。


私、多分、ノルマとしてやってきた感覚がまだ残ってて、こうしなきゃダメ!みたいなのが抜けなくてね。

だけど片足はそうじゃない世界にも踏み込めてて。

例えば、長男の言葉に対する私の感覚の変化とか、夫の言葉の捉え方が以前と違ってるなーとか、そういう感覚があるのね。

ああ、これこれ、こっちの感覚でいられたらいい、みたいなのがあるのよ。

その感覚がとてもしっくりきてて、いいなぁーと思えていて。

だからね、早く今までの「人生のノルマをこなす」意識を「私らしく生活することを楽しむ」意識に塗り替えたいって感じ。

そうソレだわ、その感覚。


今、少しずつ意識は変わってきてるんだけど、無意識の捉え方とか行動はまだ追いついてなくて。

いつも通りに生活してると、客観的に自分を見てる自分が

「そうじゃないんだよなぁ。ノルマこなしてる自分から早く変化しようよ。」

って焦っちゃうのかもしれない。

その違和感というか、まだまだだな、みたいな感覚が「自信のなさ」につながってる感じがする。


わかると焦らなくて済む

なんかさ、私、自分に自信が持てないこともダメなように感じてたから、早く自信を持たなきゃって焦ってた気がするなぁ。

ホント、結果主義。

でも自分の感覚を深掘りして、今の自分がわかったから、「大丈夫だね」って思えたよ。

過渡期なのよね。

結果主義から卒業するために、試行錯誤中。

大事なことだよね。

それを夫や息子たちも一緒に教えてくれてるのかも。

その感覚が悪くないなぁ、心地よいなぁと思いつつ、社会でそれを前面に出したらそりゃ生きづらいわーっていうのも実感してて。


過剰適応の末

こうして整理していったら、私の今までの苦しみのカラクリがわかってきた。

要はね、イエスマンすぎたのよ。

学生時代は先生や周りの大人の言うことを素直に聞いて、それが正しいことって思い込んで、その考えに忠実に動いていれば問題ないって考えてたの。

そこに「自分の考え」というのがなくて。

確かに自分の考えがあり過ぎると、社会でやっていくのは苦しいのだけど、だからといって私みたいに社会の姿が私そのもの!みたいに過剰すぎる適応というか、壮大な勘違いはしなくていいのよね。


マルっと認める、理解する

私は私でいていい。

そして、社会的な自分を持っていてよくて、どちらも好きになれる、これがすごくバランスいい。

どっちの自分も愛おしい。

どっちの自分も自分だし、私らしいのよね。


そうやって自分に言葉をかけてみたら、ああそういうことかって腑に落ちた。

私ね、社交的な自分はいいけど、悩んでばかりのの自分はダメ、みたいなさ、自分の中のいい部分と悪い部分を分けてジャッジしてたかも。

外では外の顔があり、家での顔があって、内なる自分はまた別にいても全然おかしくない。

その場面場面で、自分なりに叶えたいことがあって、その目的に応じて必要な自分になっていて、ぜーんぶ自分なのよね。

頑張りたくなる自分も自分だし、怠けたくなる自分も自分だし、人との関わりを大切にしたいって思う自分も自分、上手くいかないなーって悩む自分も自分。

悪くないよね。


今この場面ではどんな自分でいたいのかなーって、自分の声をちゃんと聞いてあげたらいいのかもね。

どんな私でいてもいいの。

そういう自分でいたいと思う理由があるのだから。

その心の声に耳を傾けてあげることで、上手くいかなかったときでも対策を考えられるしね。


だから、私は私でいていいよ。

結果的に好かれなくてもいいんだよ。

好かれたいと思って行動してた自分を、好かれたかったんだよねってわかってあげるだけでさ。


自分が楽になるために、こうしてnoteに言葉をつづって自分を励まして…私ったら自分に健気じゃない。

悩みまくってる自分。

頑張ってる自分。

ちょっとめんどくさい自分。

どんな自分も愛おしい。









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