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ホモソ・ホモエロCMをお焚き上げ!

2022年6月24日に、シモーヌ6号 「インターネットと女性」特集号刊行記念イベントとして、同誌に寄稿した笛美さんと、『シモーヌ』VOL.6刊行記念イベント「モヤモヤ広告お焚き上げ!!:ネットに漂う差別と偏見」を開催しました。笛美さんは広告業界の仕事に携わる中でフェミニズムと出会い、インスタグラム ツイッターでフェミニズムに関わる情報発信をしています。
このイベントでは、笛美さんはエロ漫画広告について、私は同誌に寄稿した「ICT業界は「デキる男」たちのもの?
」というエッセイを起点として、日本のメディアの中に描かれている男性像に注目し、広告写真とテレビCMを分析しながら、それらの中に男性中心の価値観が反映されているのか、またその描写のパターンを読み解いていきました。

ここでは、テレビCMを「ホモソ・ホモエロCM」として取り上げながら、その中での男性の描写について紹介します。ちなみに、ホモソ(ーシャル)・ホモエロ(ティック)とは以下のような意味です。

ホモソーシャル (homosocial)
 女性及び同性愛を排除することで成立する、男性間の緊密な結びつきや関係性
ホモエロティック (homoerotic)
性行為には至らない同性愛とホモソーシャルな関係の共存 「男の絆」

また、「CM(映像表現)に見られる男性中心社会を批評的に分析する」とは、「男性中心社会」を外側から見て、表現のなかに含まれる構成要素やパターン、継承されている価値観・アレンジやバリエーションを読み解くことを目的としています。

ホモソ/ ホモエロCM  仕事・職場編

男性中心社会の舞台といえば「会社」、それも都市の高層ビルにある会社が舞台として相応しい、ということになっている。男性が仕事をする/仲間とつるんでいる姿がどう描かれているのかという目線で選んだ5本。

  • デリケアM’s(池田模範堂/ムヒ)「俺たちの股間」

  • スーパードライ (アサヒビール)落合信彦 

  • ウーノ (資生堂) なかやまきんに君  

  • ジョージア「男ですみません。」(コカコーラ・ジャパン)

  • カロリーメイト「Mate 見せてやれ、底力。」(大塚製薬)

デリケアM’s(池田模範堂/ムヒ)
揃って歌い上げる「俺たちの股間」

夏は股間がかゆくなる。
かゆくなったらデリケアM's

かかずに治そう、デリケアM’s

毎年梅雨時ぐらいから放映されるデリケアM's
 のCMは、典型的な男性社会空間である会社を舞台として、行進曲調のメロディーに乗せて集団で「俺たちの股間」を歌い上げるというもの。場面設定を変えながら何パターンか放映されてきたが、いずれも最後に揃って開脚して股間を強調するポーズをするのは共通している。みんなで揃えば、「股間」という言葉を口にしても良い、むしろそれが奨励される(集団圧力の空気には逆らえない)ホモソ空間演出が、見ていてイラッとさせられる。

落合信彦のアサヒスーパードライ
バブル期の日本のサラリーマンのファンタジー

30年以上前、バブル経済の只中に発売・ヒットしたアサヒスーパードライの広告とそこから展開したビール4社の’ドライ戦争'は、現在40代半ば以降の人たちの記憶に刻まれているのではないだろうか。国際ジャーナリストとして世界(油田や遺跡、ニューヨークのプラザホテルなど)を股にかけて取材し、外国人と対等に渡り合って活躍する落合信彦(1942-)は、バブル経済に浮かれた時代の「規格外で高みを目指すデキる男」のファンタジーを具現化していたのではないかと思う。空撮や俯瞰する視点を多用しているのは「高みを目指す」表現の一つ。未だに頭の中に小さい落合信彦が住んでいるおじさん、って結構いると思う。

ウーノ (資生堂) なかやまきんに君の筋肉とスーツ (2021)

落合信彦的な「外国人と対等に渡り合って活躍するカッコいい俺」像が未だに健在なのが、資生堂のスキンケア製品「ウーノ」。従来から会社組織内の上司部下関係を描くCMが作られていたが、2021年にはなかやまきんに君を起用。スポーツジムで鍛え上げた筋肉 →外国人同僚とロッカールームでスキンケア談義→ 増殖(ロボット的な表現)→ 都会の 高層オフィスビルで連れ立って商談 という流れで、都会で働くホワイトカラー男性像のテンプレート表現を繰り返している。コロナ禍でリモートワーク推奨の時代になっても、「高層ビルのオフィスに出社・商談」が「デキる男」の舞台に相応しいのは変わらないようである。

少年性の礼賛 ジョージア「男ですいません。」(2011)

エルヴィス・プレスリーの大ヒット曲「A Little Less Conversation」に乗せて展開する男性賛歌。「男は、単純だ。」、「男は、計算しない。」、「男は、笑える。」、「男は、女に弱い。」と、「男」というクソデカ主語で主語で括って、男性たちが連んでいるさまざまなシーンをつなぐ中で、「男は、サイテーで、そして男はサイコーだ。」と続いていく。「男で、すいません」という言葉は、謝意ではなく、本心では居直りである。ところどころに登場する女性は、男性の子供っぽい振る舞いを見て、「そんな子供っぽいところが可愛い」と微笑み、支え、ケアを担う役割として描かれる。
このCMを見て自己肯定感を得て励まされる人もいるだろうけれど、男性社会の外側にいる者としては正直うんざりさせられる。

カロリーメイト「Mate 見せてやれ、底力。」(2016)
ひたすら礼賛される「男の絆」

大塚製薬の製品CM(ポカリスエットやカロリーメイト、オロナミンCなど)は概ね、学校や会社という組織の中で、制服やユニフォーム、スーツを着た人物を描き出しているという点で、日本社会の中での「帰属組織の中での人としての望ましいあり方・規範性」を集約して表しているように思う(個人的にはそこがとても苦手)。「Mate 見せてやれ、底力。」(2016)では、高校時代の野球部の先輩後輩同士で、現在も同じ会社で働く男性同士の「男の絆」が描かれる。部活動の厳しい練習、ブラックな労働環境(残業)、ハラスメント的な場面を描きつつ、お互いに辛苦を分かち合い、理解し励まし合える二人の関係が続くことは美しいことかもしれないが、このような「絆」に心を揺さぶられ、感情移入してしまうことは、過酷な男性中心社会のハラスメント環境への耐性と、その中で生き残ることを前提としていて、その構造自体がとてもグロテスクなものだと思う。

ホモソ/ ホモエロCM 集団行動編

一斉に走る / 同じ方向を見る(目的遂行 現状打破)

  • JR 東海 「のぞみは、かなう。」(TOKIO, Be Ambitious)

  • 野村證券「2020のリレー 自己ベスト」(玉木宏・坂口健太郎)

  • マクドナルド 「サムライマック」 (堺雅人)

踊る / 踊らされる 

  • サントリー「プロテイン・ウォーター」(中村獅童 松田翔太)

  • *マンダム 「ギャッツビー」 (木村拓哉)

  • *PV: SEKAI NO OWARI 「Habit」 (2022)

会社や学校のような組織が舞台でない場合に、男性達の集団行動として典型的な動作が「走る」、および「踊る」である。脇目も振らずに、目的を遂行する、全力を出し切って前進することを直裁に描き出す表現方法と言える。

TOKIOはいつも走っている

「走る」演出は、グループアイドルを起用する際に適した演出方法と言えよう。TOKIOは、長寿番組「THE 鉄腕 DASH!」との関係からなのか、いつも、ひたすら走っている。JR 東海 「のぞみは、かなう。」のほかに、クロネコヤマト、ジャパネットタカタのCMでも走っている。「のぞみは、かなう。」でスーツ+革靴で走るのは、出張するサラリーマンを表現しているのかも(この装いは走りにくいと思うけど)。

野村證券「2020のリレー 自己ベスト」 五輪スポンサーも走る

スーツ+革靴で走る表現は、東京五輪のキャンペーンにも登場した。五輪スポンサーの野村証券、上司と部下の組み合わせで(玉木宏・坂口健太郎)フィールドトラックを走る。黒い背景に真剣な表情で走り、バトンをつなぐ「デキる男」たち。招致段階から色々破綻していた東京五輪というプロジェクトの中で止まることもコースアウトすることも許されなかった数多の人たちの姿に重なる。

同じ方向を見る 現状打破 サムライマック 堺雅人 

コロナ禍の閉塞感と疲弊感が充満するご時世に照らし合わせて、この空気をなんとか打破したい系
のCM表現として、「走る」表現から派生し「元気を出して、新天地を目指そう」と鼓舞する堺雅人の「サムライマック」。オフィスビルに登場するスーツ姿版と、大海原の嵐に立ち向かう男の集団を率いる侍版の二種類があるが、サラリーマンと侍以外に「新天地を目指すリーダー像」表現する方法はないのか…

ダンスの音頭化 サントリー「プロテイン・ウォーター」

「走る」あるいは「同じ乗り物に乗る」以外の、「集団引導」表現になるのが「踊る」である。サントリーのプロテインウォーター は、中村獅童と松田翔太が先導する「細マッチョ」 のグループと、覆面レスラーの「 ゴリマッチョ」のグループという、体型のスペックで割り振られた男性達が、同じ振り付けをして向き合うという場面を描いている。ダンスのステージのカラーリングと「細MACHO」の電飾は、1970年代のSOUL TRAIN(参照:Soul Train Line September Earth Wind & Fire)を模しているが、舞台に立つ男性達が自由に踊るのではなく、一斉に同じ振り付けを集団で行うという「音頭化」の過程を経ているところが日本風のアレンジと言えよう。自発的に個人が思い想いの振り付けで表現をするというよりも、「決められた振り付けに従う」こと、「踊る/踊らされている」の混在状態が日本的なのかもしれない。

マンダム「ギャッツビー」 キムタクの「キムタク性」

集団行動としての「踊る/踊らされている」表現に照らし合わせると、マンダム「ギャッツビー」で踊る木村拓哉の踊り方は目を見張るものがある。木村拓哉は、「何を演じてもキムタクはキムタク」という揺るぎない「キムタク性(それを、唯一無二のスター性とも言う)」を30年以上体現し続けている存在だが、そのことはキムタクの「踊る」姿にも表れている。「ギャッツビー」のCMで「好きにやっちゃって。」とさらりと言うキムタクは、一人で踊り、群れから浮いていた。

操られるように踊る男子生徒集団  SEKAI NO OWARI 「Habit」 (2022)

CMではないが、 SEKAI NO OWARI 「Habit」 (2022)のPVは、これまで見てきたホモソCMの系譜に位置づけられ、男性中心社会の閉鎖性と息苦しさ、その中で強制され、またそこから悪ノリとして展開する振る舞いをは反映されているように思われる。SEKAI NO OWARI のメンバーが男子校の教師として先導することで、操られるように男性生徒達が踊り始めるが、徐々に奇妙な熱気のようなものを帯び始め、途中で脇の下に手を持って行ったり、股間に手を添えるような振り付けが加わったりする。コロナ禍ご時世の諸々のフラストレーション、鬱屈感が反映されているように思われるのだが、この楽曲のPV、ダンスが支持され、模倣される理由を引き続き考えてみたいと思う。

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