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兼子裕代・小林美香対談 「APPEARANCE」を巡って 抜粋・再録

この対談は、大阪のThe Third Gallery Ayaで開催の「APPEARANCE」(会期: 2020年1月25日(土)-2月22日(土))のオープニングイベントとして開催されたものです。写真集『APPEARANCE』は青幻社から2020年2月に刊行。

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APPEAERANCE 以前 サンフランシスコでの活動

小林 私が最初に兼子さんと知り合ったのは、かれこれ19年前ですね。

兼子 当時は東京で写真をやりつつライターの仕事もしてたんです。2001年に小林さんが共訳で出された『写真のキーワード 技術・表現・歴史』のレビューを雑誌『アサヒカメラ』で書く際に連絡を差し上げたのがきっかけでした。その時はメールのやり取りだけでしたね。2002年に私は渡米しましたから、その直前の頃です。

小林 直接お会いしたのは2008年のことですね。私は2007年の秋から約1年間アメリカに滞在し、ニューヨークの国際写真センター(ICP)サンフランシスコ近代美術館で研修をしていたのですが、2008年に美術館の方を通して紹介していただいて、サンフランシスコで初めて直接お会いしました。私がサンフランシスコで過ごしたのは4カ月ぐらいなのですが、私が間借りしていた家と、兼子さんのアパートが近所だったこともあって、一緒に食事に行ったり、車で色々な場所に連れて行って頂いたり、ベイエリアのアーティストの方々を紹介して頂いたりしました。サンフランシスコ市役所で開催されたグループ展「Eighteen Months: Taking the Pulse of Bay Area Photography」や、兼子さんのスタジオで作品を拝見する機会がありました。いずれも日本で撮影された作品で、兼子さんがアメリカで活動されているのに、日本の風景を捉えた写真を見せて下さるのに、不思議な気持ちになった記憶があります。

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New Memories より

兼子 グループ展では、私が生まれて9歳まで過ごした青森で撮影したシリーズ「New Memories」の中の作品で、弘前での花見の様子を捉えたものを展示しました。スタジオでお見せしたのは、「Three Cornered World」ですね。母の実家のある静岡の茶畑を撮った写真(サンフランシスコ近代美術館に収蔵)もその中に含まれます。私は2002年からサンフランシスコ・アート・インスティチュートの大学院に在籍して、その間は現地でも撮影して作品を作ったりもしていたのですが、なかなかまとまらなくて、時折日本に帰国して撮影していました。日本で撮影してきたものをサンフランシスコのレイコー・フォト・センター(Rayko Photo Center)でプリントしていました。レイコー・フォト・センターは暗室とスタジオ、ギャラリー、写真の教室を備えたベイエリアの写真家のコミュニティセンターみたいな場所です。残念ながら今年で閉鎖されてしまうのですが。

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Three Cornered Worldより

小林 「Three Cornered World」の中には、ベイエリアで撮影された写真も何点かありましたね。

兼子 そうですね。この作品は、縦位置で風景を捉えたシリーズなのですが、ベイエリアや東京、静岡、青森などいろいろな場所に赴いた合間に撮影しています。

小林 Three Cornered World」の作品は、角を曲がった先にまた別の場所があるような空間感覚、それぞれの場所に身を置きながらも寄る辺なく感じるような身体感覚が根底にあって印象に残っています。私がサンフランシスコに滞在している間に見せて頂いた作品は、どちらかというと風景が主題というか、静止的な場面を捉えた写真が殆どだったのですが、今回発表されている「APPEARANCE」で大きく変化していますね。

「APPEARANCE」撮影の経緯 子どもたちへの関心

兼子 写真集のステートメントの中でも書いているのですが、2009年頃、体調を崩して目眩を感じたりすることが半年ぐらい続いていたんですね。その頃に子どもに目が行くようになって、子どもの写真を撮りたいなぁと思うようになってんです。でも、子どもは写真の被写体としてはかなり難しい、ただ可愛い存在として撮りたいというわけではないので、どうやって撮ったらいいんだろうと考えていたときに、歌手の友人から「子どもに歌を教えているんだよ」という話をたまたま聞いて、歌っているところを撮るっていいんじゃないか、と思いついたんです。それで、学校とか幼稚園とか、学童保育のようなプログラムに関わっている人に声をかけてみたりしたんですが、なかなかうまくいかなくて、子どもがいる人に個別に頼むようにしたんです。そしたら、そこから人を紹介してもらったりして、撮らせてもらえるようになりました。

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小林 子どもの年齢は何歳ぐらいですか?

兼子 4歳から10歳ぐらいまでの間ですね。4歳より下の幼児だとただただ可愛らしい感じになってしまうし、10歳以上だと思春期を迎えてまた別のカテゴリーになってくると思ったんですね。私の住んでいたアパートの管理人の息子さんとか、ギャラリーでの展覧会のオープニングに偶々来ていた女の子とか、子どもたちとの出会いの経緯はさまざまですが、それぞれの親御さんに許可を得て連絡先を交換して、撮影の機会を設定して撮っています。

小林 撮影したいと頼んだ子どもたちは皆歌ってくれましたか?性格やその時の気分とかで難しいこともあったり、人前で歌うのは勇気がいることだと思うのですが。

兼子 確かに親御さんは承諾してくれても、子どもの方が乗り気じゃなくなったり、嫌がったりするということも何人かありましたね。何を歌うかは、子どもたちそれぞれにまかせていて、学校で習った歌や流行のポップスを歌う子もいれば、中には即興で、学校で起きたことをそのままメロディーをつけて歌にしている子もいました。

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小林 子どもたちは、学校で集団で合唱するということもありますよね。子どもの中には合唱が嫌で歌うのが苦手になる子もいますよね。アメリカではどうなのでしょうか?

兼子 学校の音楽の先生が撮影を承諾してくれたことがあって、何回か撮影に行ったことがあります。子どもたちは一生懸命歌ってくれて、撮っていて楽しかったんですが、子どもたちが集団で歌っているという雰囲気と、一人で自分の家とか家の庭で歌っているという雰囲気が全然違うことに気がついたんですよ。私はどちらかというと、個人でアプローチした時の方が好きなんだなということに気がつきました。確かにアメリカの子どもの方が積極的でノリがいいっていうことはあるかもしれません。学校で先生の指導で、聴き手がいて歌うということは、一人で歌うことは違うんだなと思いました。自発的に、というか自分のために歌っている姿を撮りたいと思ったんです。

小林 最初は正方形の画角で、人物に接近して撮影されていましたが、画角が変わったり、大人の人がモデルになったりする中で、周囲の環境も含めて引いた距離から撮影するようになりますね。

兼子 2010年から撮影を始めましたが、2011年は東日本大震災が起きて精神的にダメージを受けたり、被災地支援の活動にも携わったりして、その年はあまり撮影できなかったですね。2012年も病気をしたためにあまり撮影できなかったこともありました。ですから、所々で中断した時期もあったのですが、2014年ごろから大人の人も撮るようになりました。その間、使っているカメラも変わっていますが、手持ちでモデルの人の周りを動きながら、距離を変えたりしながら撮ってます。画角が変わることで、周りの環境をどのように画面の中に入れていくかと、画面の中に人がどう現れてくるか、ということを考えるようになりました。

「APPEARANCE」というタイトルについて

小林 作品のタイトルになった「APPEARANCE」は子どもを撮っている時から決まっていたのですか?

兼子 そうですね。「APPEARANCE」は最初の頃から考えていました。子どもはこの世に現れて数年しか経っていないわけですから、「子ども=世界に現れてきた人たち」というイメージもありました。友人に訊いたら「APPEARANCEは舞台に出演するという意味もあるからいいね」と言ってくれました。それから、哲学者ハンナ・アーレントの著作『人間の条件』で「APPEARANCE(出現)」が、人々が都市やコミュニティの空間の中に現れて、言葉を介してやりとりを行い、お互いに社会に参加していくこと、として書かれているのを読みました。人と私がお互いにやりとりをして、歌っている様子を撮影するうちに、写真で展示をしたり本を作れたらいいなと考えるようになりました。

小林 制作の過程で、日本で何度か展示をされていますね。

兼子 2013年にアートギャラリー石で「Comes to the Light」、2017年に東京と大阪のニコンサロンで、「APPEARANCE-歌う人」、2018年に空蓮房で「形相」という展覧会を開催しました。展覧会によっていろいろな見せ方をしたので、作品の輪郭が徐々にできてきました。展覧会それぞれが「出現の空間」という感じなので、それをいずれ本にまとめたいなと思っていました。 

小林 私は東京での展覧会はいずれも拝見しています。ニコンサロンでの展覧会は、正方形に近い空間の中に作品が均等に並んでいる、という展示方法でしたね。空蓮房での展覧会は出品点数がとても少なくて、「形相」というタイトルによって「APPEARANCE」という言葉の違う側面が表されて新鮮に感じました。

兼子 「形相」というタイトルは空蓮房の谷口昌良さんがつけてくださったタイトルで、仏教的な意味合い、仏像の相貌とかと関連づけてくださったのだと思います。

小林 「APPEARANCE」という言葉が日本語で、「外見」とか「容姿」ということを意味することは知っていましたが、「形相」というと姿形だけではなく、感情の表れを伴う凄みのある意味合いですね。会場の壁に、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉「「顔」は神の言葉が宿る場所である(The human face is the conduit for the word of God. )」という言葉が記されていました。空蓮房は小さな白い空間で、天井と壁、壁と床の間にアールがついた構造になっています。作品に対峙して瞑想するための空間ですね。その中に歌う人の写真が展示されているのを見て、私はあたかも歌う人の頭蓋骨の中に入っているかのような強烈な感覚を味わいました。

兼子 「APPEARANCE」というのは、これまでお話ししてきたような「出現」、「出演」、「形相」、「外見」みたいに色々な意味があるのですが、それに加えて「出会う」というような意味もあるんですよね。自分が出現して、相手も出現する、だから「出会う」。人それぞれの行動や属性ということだけではなくて、複数の人々が集うとかすれ違うとか、そういう現象のことも含まれるんですよね。それは私自身の経験にも重なっています。私は外国人としてアメリカに行って右も左も分からないような状態で何年か過ごし、色々な人に出会ってきました。このプロジェクトを続けてきたからこそ、ちょっと挨拶をして終わっていくというような出会いを何とか形にしていくことができたように思います。

小林 私がアメリカに滞在したのは1年余りでしたが、色々な人と出会っても、本当に分かりあったり親しくなっていくのは難しいな、と感じることが多かったですね。

兼子 私はアメリカで生活して18年になりますが、人種的に多様なアメリカという国で、人種を超えて親しくなっていくことはかなり難しい、と感じることが多いんですよね。ある程度までは親しくなれるんだけど、それ以上に親しい関係を築いていくのはかなり難しいです。私自身はもともとそんなに社交的ではないので、こういうプロジェクトを敢えてやっていかないと、引きこもりになってしまっていたような気もします。アンビバレントな気持ちはあるんですけれども、アメリカでは有色人種はマイノリティで、私もアジア系としてマイノリティの一人だし、マイノリティと言っても、もっと細かく分かれているし、そういう分かれているということを超えて引っかかっていきたい気持ちはある。
こちらがオープンになれば相手もオープンになるということもあるので、この作業を通して人と関わってきた、その歴史のような気がしています。そうかといって、モデルになった人たちは殆どの場合、とても親しくなっているわけではなくて、友達と言えるほど親しい間柄でもないんです。でも、この撮影で、私が歌うところを撮らせて欲しいと頼んだことに対して同意して、応えてくれたわけで、そのことが有難いと思いますね。100パーセント人と人が理解し合うことって不可能だと思うんですが、部分部分で、少しずつ理解できることってあると思うんですね。そういう経験を通して、癒されていくことがあって、その経験が形になっていったように思います。

歌うことと感情の表れ 無防備であることの強さ

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小林 子どもの場合は、衝動とかその時の気分にまかせて歌を歌っているように見えるのですが、大人の場合は、何を歌うかを事前に考えたり、準備したり、感情を込めたりしていて、兼子さんの気持ちに近い気持ちを持つから、それに応えようとするところもあるかもしれませんね。

兼子 大人になってくると感情を込めるという側面が多くなっているかもしれませんね。「この歌だから歌いたい」ということもあると思います。歌う中で感情が湧き出てくるのが見えるときがあって、撮っている私の方も涙が出てしまいそうになる時があります。そういう感情が湧き出てくる瞬間が捉えられられたらいいなぁと思っています。写真集の制作の終盤にさしかかった昨年の11月に、2歳の時にイランから移民してきたアーティスト女性の写真をゴールデンゲートブリッジの近くの丘で撮りました。ここは自然豊かな場所なのですが、太平洋戦争の時の要塞の跡地でもあるという歴史を持った場所なんです。彼女は手術を目前に控えて不安を抱えているような状態だったのですが、感情を込めて熱唱してくれました。現在アメリカとイランの関係は微妙なことになっていますから、彼女の中にも色々な感情が渦巻いていると思いますね。

小林 この写真は遠景まで写っていますね。一人で歌っているのだけれども、現実には写っていない場所や、自分のルーツに関わる何かを、歌うことで召喚させているようにも感じられます。歌うことってとても個人的な行為ですが、自分に関係している何かを呼び寄せているようなことってあるんじゃないかな、とも思いますね。
お話を伺っていると、一連の作品は、撮る側も撮られる側も、偶発性、その時の状況に身を委ねているところがありますね。通常、ポートレート写真の撮影というと、撮られる側が角度を気にしたり、撮る側がモデルに指示をしたりと、お互いをコントロールするということがありますが、コントロールすることを放棄しているというか、コントロールできないことが前提になっているというか。それを大人同士でやるって、結構勇気のいることですよね。

兼子 そうですね、それは重要なことだと思います。無防備に感情をさらけ出しているのを私に見せてくれていることが強いなと、写真を撮っている時から感じていましたね。「無防備さ」はどちらかというと「弱さ」に近いですが、さらけ出して「オープンになっている」っていう裏腹な「強さ」があるんです。

小林 写真集の巻末に寄稿して下さったキュレーターのリサ・サトクリフさんがその「無防備さ」、「弱さ」ということを言い表すために「vulnerable」という言葉を使っていますね。「vulnerable」というのは、性質・性格として弱い「weak」とは少し異なって、外からの攻撃に対して脆い・弱いという意味ですが、この言葉は人と人との出会いとしての「appearance」にも結びつけられますね。人が関わりあうことによって、意図していなくてもお互いに傷つける・傷つけられるということがありますが、歌う人を撮るプロジェクトは、人それぞれに備わる「vulnerability(脆弱さ)」を前提とした上で、お互いを刺すようなやり方ではない方法で接することを模索しているのですね。

兼子 そうですね。写真家と被写体の間には力関係が発生するわけですが、どちらかがどちらかをコントロールするという一方通行的な力の働きではなく、両方通行にしたいという気持ちがあって、相手に何かしてもらって撮る、っていうのは自分には合っていたと思います。向こうから発信されたものを、私が受け止めて撮るという関係ですね。

小林 今回の展覧会では、女性が写っている写真が大きなプリントになっていますね。個別の写真についてエピソードを伺えますか。

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兼子 女性の写真を大きくしているのは、私がフェミニストだからということもありますね。(笑)表紙に使っているこの写真の女性は、パフォーマーで、ドクター・ドリームという芸名で白衣を着て活動しています。知り合いのアーティストのイベントに彼女が参加しているのを見に行っていて、写真を撮りたい!と思ってお願いしたら、快く引き受けてくれたんです。インパクトのある外見をしていますが、とても優しい人で、普段は古めかしいシンセサイザーを使って演奏とかしながら歌っていたりもしているんですが、このプロジェクトでは、楽器演奏は使わないと決めていたので、声だけでパフォーマンスをしてもらいました。彼女の場合は、歌を歌っているというより、自作の音を出している、という状態です。撮影された場所は、サンフランシスコのシビック・センターという行政の中心地で、あまり治安の良くない地域と隣り合わせにある、ちょっと独特な場所ですね。彼女はそういう場所にいてあまり違和感のない感じですね。

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私は、2017年と2018年に、サンフランシスコの刑務所に隣接した敷地で農園を運営していたガーデン・プロジェクトというNPOで働いていたんですけど、この写真に写っているのは、創設者のキャスリン・スニードさんのお友だちです。オープン・ガーデンという、このNPOに関係している人たちが招待されるイベントの時に知り合いました。ご自宅で撮影をしたのですが、最初はR&Bを歌って下さって、それはそれでお上手だったのですが、何かちょっと表面的な感じだったんです。それで、彼女は敬虔なクリスチャンだったので、教会で歌っている歌をお願いして歌ってもらったら、感情が湧き出してくるような感じでした。

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聖歌隊に所属している男性の方も写っていますね。彼の家の裏庭で撮ったのですが、彼は庭でお花を育てていて、ユリが綺麗に咲いたら来てください、とお願いされて、ユリの開花を待って伺いました。

小林 キリスト教を信仰する人が教会で賛美歌を歌うように、歌うことが人それぞれの生活の中で習慣になっているというそのあり方も興味深いですよね。カラオケを歌う、というのも一つの形かと思いますが。

兼子 撮影していて実感したのは、歌うという行為は、どの国や言語、文化にも共通している普遍的なものなんだな、ということです。実は、カラオケバーみたいなところでカラオケで歌っているところを撮らせてもらったこともあるのが、マイクがあるのはちょっと違うなと、純粋に自分のために歌って、歌う行為に没頭しているというより、他人に聴かせている、というエゴみたいなものが見えしまう、と思ったんです。

小林 展示されている作品は、写っている人一人につき一点ですが、写真集の中には、歌っている場面のシークエンスが数点入っていますね。

兼子 歌うっていうことは時間が持続しているので、その持続の感じを何枚かの写真で表したいと思っていくつかシークエンスを入れたんですよね。これは、写真を選ぶ基準っていうところにも関わってくるんですが、このプロジェクトを始めた頃は、感情が表出しているピークの表情が捉えられているとか、歌っている感じがとても強い写真を選びがちだったんですが、途中から意識と無意識の間とか、ある状態と別の状態の間を探すようになりました。人前で歌っているわけですから、撮られている人の自意識って絶対あると思うんですけれど、その自意識が薄れている、あるいは通り越したところを選んでいることもありますね。特に正方形のフォーマットで撮影していた時は、「感情が表出しているピークの表情」を選ぶと、レコードジャケットみたいになってしまうので、それは違うな、と。

「一人平和活動」としてのプロジェクト

小林 写っている人たちを見ていると、人種的に多種多様で、アメリカの中でもサンフランシスコやベイエリアが多様な人たちを受け入れていることがわかりますね。私がアメリカに滞在したのは1年余りでしたが、ニューヨークよりもサンフランシスコの方がアジア系の人が多くて、気持ち的に楽だった記憶があります。

兼子 そうですね。ニューヨークよりもカリフォルニアは気候的に穏やかなので、リラックスしていられるところはあるかもしれませんね。こういう地域性だからこそ、色々な人がこのプロジェクトに参加してくれたのかもしれません。撮影された人は、人種的にも、経済的にも多様なんですよね。実は、とても裕福な人、というのも写っています。

小林 3年前にサンフランシスコに行った時には、市内にマンションやコンドミニアムが沢山建設されていて、物価も物凄く高くなって、経済格差がますます広がっているのを目の当たりにして驚きました。

兼子 アメリカは情勢も不安定だったり、大統領選も間近に控えていたりと、不安な要素が多いですね。友人の写真家が私に言ってくれたんですけど、歌う人を撮影する活動自体が、「一人平和活動」みたいだね、って。そう言われて嬉しかったですね。

小林 世の中で人々の間に警戒心の垣根が高まっていく中で、「どうやってガードを解いて、お互いに無防備になれるか」という活動ですね。

兼子 凄く狭い世界での活動ですけどね(笑)。多少貢献できれば良いなと思っています。共感し合えない中でも、人間として共通点はあるっていうことや、人としての価値というのは人種の違いや経済的な格差というところでは測れない、ということが伝われば良いなと思っています。

ギャラリー展示風景

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