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「当たり前でない日常」だからこそ、家族の「愛せる距離」を冷静に考えられること。

つかの間の日本滞在中、地下鉄でお子さん3人を連れているお母さんを見かけた。
1人の乳飲み子を抱っこ紐で抱え、ベビーカーの中にもう1人、そしてまだ歩き方も少しおぼつかない幼児1人に、ベビーカーを捕まらせている。
彼女が地下鉄の車両に乗って来た時、一人の若者男性が席を譲ろうとした。
日本の若者もやるじゃんと思って眺めていたけれど、その後の展開も想定の範囲内だった。

彼女は、席を譲られることを、丁寧に断っていた。
若者の気持ちはとてもありがたいことだけれど、彼女は彼女なりに、かろうじて子供3人と歩くバランスを保っていたのだろう。
きっと、そのまま立っている方が、ずっと楽なのだ。

それにしても、大変な子育てだなぁと、客観的に見ている私がいた。
いやいや。
私の場合、あれに加えてもう1人。
重度の障害を持って生まれた長女がベビーカー。
長男と次男がそこに捕まり、乳飲み子の次女が抱っこ紐だった。

どうやって、やり過ごしてきたのだろうと考えると同時に、
私はまた記憶のブラックホールに落ちていった。

記憶がない。
覚えていないのだ。
ポッコリと、穴が開いたかのように。

両眼性無眼球症という重度の重複障害を持って生まれた長女との生活は、それはそれは大変な日々だった。
泣き喚く彼女を何時間も何時間も抱っこして、人目を避けるように外に連れ出し、アパートの屋上で東の空が白んでいく様子をいつまでも眺めていた。

娘のたくさんの手術、たくさんの入院、たくさんの葛藤を繰り返すなかで、
私は自分を失っていった。
下の子供たちも生まれて、無我夢中であったのかもしれない。
ただ「自分に課せられたミッション」をこなすだけの日々の記憶がどんどん失われていくなかで、日記を書くことでその足跡を残しておきたかったのかもしれない。

******

長女は10歳を過ぎるまで、歩けなかった。
今でも立ち上がる時は介助が必要だけれど、片手を引いてやると、
もう片手に白杖を持って、ノロノロと歩くことができる。

特別支援学校の寮生活という約10年の歴史が、彼女の可能性を最大限に引き出してくれたことは、言うまでもない。

しかし振り返って、あの時の葛藤を思い出すと、苦しくなる。
それまで四六時中一緒にいた我が子を、学校の寮という場所に送り出すこと。
10歳という、まだ成人の半分でしかない幼い我が子を、他人の手に託すということ。
何度も自問自答を繰り返し、片腕をもぎ取られるような気持ちで決意したこと。

早かれ遅かれ、いつか、我が子とは離れなくてはならない時期が来る。
その時に、我が子が家族以外の人を頼れること、信頼できること、その気持ちを培うために、心を鬼にしなくてはならないこと。

******

あの時の苦悩を思い出しながら、岸田奈美ちゃん母娘と対談した。
「自立とは、頼れる先を増やすこと」
「家族を愛するとは、愛せる距離を探ること」
キッパリと結論を語るその姿に、私は胸を撫で下ろす思いだった。

あの時の決断が正解だったかは、分からない。
でも少なくとも、そういう方法があるということを、今さらながらに学び、背中を押してもらった気持ちになった。

障害を持った家族がいたり、介護を必要とする家族がいたりすることは、
健康で穏やかな生活を送る家族からすると、「当たり前でない日常」なのかもしれない。
でもだからこそ、「愛せる距離を探る」必要があったし、結果として、それぞれの「自立」に向けて歩き出すことができた。

「嫌なことはすべて忘れてしまう」という欠陥が、いつか長所になるといいと思いつつ、
お会いした人の顔や名前まで忘れてしまう自分に、嫌気が差している昨今。

頃合いの良い距離感で「愛せる距離」にいられる存在でありたい。
「家族だから」というこだわりを捨てた時、世の中はもっと広く優しい存在になる。


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