アール・ブリュットと電波ビラと中川家2/3
滋賀県立美術館の「人間の才能」展のステイトメントにはこうある。
既成の評価におさまらない、しかも「文化芸術に傷つけられていない」独自の方法論で製作された、というのだが、そんな自由さはあんまり感じない。
理由のひとつが作品の形状。絵画や立体造形は、既成のアート作品のカテゴリーにおさまるものだ。そしてつくり手は「アール・ブリュットのアーティスト」として有名だったり、障がい者アートを支援している(名門)作業所の通所者だったりする。評価ずみってことだ。プロのアーティストの中原浩大の作品と一緒に並べるというキュレーションは、「(既成の)アート」に寄せた落とし所になっている。
デュビュッフェがアゲまくる「まったく純粋で生な芸術」が、「文化芸術に傷付けられ」ている。自分で自分の足を食ってるタコみたいだ。
ブリュット(粗暴)で「まったく純粋で生な芸術」は、誰も「アール・ブリュット」だと思わないようなもののなかに、たくさん埋もれてある。たとえば電波ビラだ。
電波ビラは、圧迫感のある文字を書き連ねたビラや看板で、その名の由来を、Wikipediaはこう解説している。
この電波ビラを目にした人の多くは、不安で不快な気分になる。
被害妄想や強いこだわりが噴出した”異様”な文言や筆跡から、書いた人のただならぬ心の偏りや極まりを感知するリテラシーがあるからだ。一部のサブカル愛好家はこれを「電波系」と呼んで面白がったが、「アール・ブリュット文芸」「純粋で生な言葉の芸術」と鑑賞する人は少ない。
でも、字に対してと同様に、絵に対してもリテラシーがあるならば 統合失調消症や自閉症などの障がいのある人の絵にある隙間恐怖や強い色彩へのこだわり、脅迫的なストロークの反復から、電波ビラからと変わりない心のざわつきを感じるんじゃないだろうか、私は感じる。
電波ビラなら目を背けられ、アートと名がつけば、自由、解放、生きることの表現「人間の才能」として美術館で鑑賞の対象となる。
アートとは、その程度にはリスペクトされ、また人を思考停止に導く装置であると思う。
アール・ブリュットと電波ビラと中川家1/3
アール・ブリュットと電波ビラと中川家3/3
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