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石本正の舞妓ヌードには、「伝統の世界の生きたお花」じゃなくて、人間がいる。

まずはひとボヤき。

父87歳と一緒に、生誕100年回顧展 石本正展に行きましたら、観客層がおよそオーバー70である。なのにキャプションの文字が見づらく、位置も変に低い。おまけに額のガラスにライトが激しく反射していた。「ペインティングナイフで絵の具を削ったマチエールが、、、」と描法の特徴が解説されているのだが、ペッカペカで見えんがな。

いかにも高齢者の視覚にキビしい展示環境に、父を含む会場の複数からブーイング噴出。本人たちはつぶやき程度で言ってるつもりかもしれないが、耳が遠いので怒鳴り声になっていた。(阿鼻叫喚)

苦情は会場案内の女性たちにぶつけられてしまうのだが、、、、
ジイさんもバアさんも、ちょっと待て。
悪いのは彼女たちじゃない。

ここでこそ、年の功で思い出したい昭和の至芸。
人生幸朗師匠の名セリフ。
責任者出てこい!

舞妓ヌードはモンド趣味か? 


いやしかし、作品はとても面白く鑑賞した。

舞妓を描く日本画家は多くとも、舞妓のヌードを描いた画家は、後にも先にも石本正だけではないだろうか?しかも大量に。

頭は日本髪、首まで白塗り、あとはマッパ。この姿、反射的に大映「温泉芸者シリーズ」を思い出してしまう。官能というより、お笑い寸前。ただただモンドだ。

暴力芸者じゃないよ

官能美といえば聞こえはいいが、モデルの設定は10代なかばである。「未成年ポルノはいかんがな」と教科書通りに憤慨してみたが、いや、それ以前に、「舞妓ヌード」は、絶対にありえない、と反射的に思えてしまうのはなぜだろう?とモヤッとした。

石本は、舞妓の装飾性を脱がせて、10代の女の子の生々しい色気を描こうとした。日焼けして水着の跡をつけたヌードもある。舞妓が海水浴を許されていたか知らないが、石本があらわしたかったのは、舞妓をやっている若い女の子の洗練されない健康美だ。そのいっぽうで、石本は田舎を出て華やかな花街にやってきた彼女たちの内面の寂しさや孤独に思いを寄せ、舞妓をトップレスのおっぱい菩薩に見立てて描いてもいる。

ぜんぶ、おっさん目線やがな。

それはそうなのだが。

この舞妓ヌードは「見事な失敗作」と酷評されたらしい。
思うに、絵そのものの出来というより、「アンタ舞妓はんを、ヌードで描きまっか?」という拒絶反応だったのではないだろうか? そうだとしたら、その当時の酷評目線と、いまこれを見て「舞妓ヌード」は、絶対にありえない(けしからん)と思ってしまった私の感覚には、たぶん重なるものがある。

このおっさん目線は、少なくとも舞妓たちを肉体と感情のある人間としてみている。着物を脱げば一人の若い女性で、洋服を着ているふつうの女たちと何も変わらないのだ、と。そこにおっさんらしいエロ目線があったにせよ、少なくとも「伝統のオブジェ」として彼女達の人格(人権)を過小評価する非情はない。

そもそも、有名大学現役女子大生のヌード、人気アイドルのヌードが珍しくないのなら、舞妓のヌードも(本人が望むなら)ありえなくはないにもかかわらず、舞妓は“伝統”(とやら)の中の「生きたお花」。「おおきに」「おたのもうします」「かんにん」「わからしません」などと、お仕着せの感情のない花街言葉を発するだけの、感情のないいきもので、権利主張や告発なんか、とんでもない!としていたら、それは、おっさん目線以下ということになります。

ゲイシャ・ライジング! 

(ケネス・アンガー先生を偲んで:おまけ章)


「温泉芸者」を検索していて、『あの胸にもういちど』 のマリアンヌ・フェイスフルを凌ぐ、こんなカッコいい映像を発見。
芸者を、男性性の象徴(笑)、バイクにまたがらせるとは痛快な。
石本正先生も、ケネス・アンガー先生も、見てますか?
誰よ〜、こんなイケてる映像アップしてる人は?と思ったら、
木村了子画伯ッ!!!!

降参です。
座布団全て差し上げます(いらんか)。

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