『背骨の末端』(小説)

「駅前のホテルなんですけど」
「はい」
「できるだけ海沿いを走りつつ」
「はい」
「遠回りしてもらってもいいですか?」
「遠回りですか?」
「はい。遠回り」
「いいですけど」
「ありがとうございます」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫?」
「はい。大丈夫ならいいんですけど」
「大丈夫です」
「さようですか」
 さようなんですこう見えて結構大丈夫なんです、と言ってワンピースの裾を整えながら笑ったけれど、笑顔をどこに向けるべきなのかよくわからない。あるいは笑わなくてもよかったのかもしれない。伝えたい情報が伝われば、それ以外の情報に意味はない。
 車窓の外を2台のトラックが続けて通り過ぎ、その走行音と振動が車内に広がってはすぐに消えていく。海水浴場の閉場を告げる、歌詞のない蛍の光が聞こえてきた。ガラスに隔てられた音楽は、私との距離を頑なに維持していた。それはここからずっと遠くにあって、ここからずっと遠くになければならないといったような聴こえ方だった。そして、私と音楽の間で成立したこの関係はあらかじめ誰かによってすべて決定されているような気がして、私は身を委ねるしかなかった。身を委ねる以外に何かできることがあったとしても、私は何もしないけれど、今はこれでよかった。
「とりあえずこっちでいいですか?」
 運転手さんがフロントガラスに右手の人差し指を向けていた。
「そっちでお願いします」
 私は大きく頷いた。が、この頷きにも何ら意味はない。そっちでお願いしますと返した時点でそっちに向かうことは決まっていて、頷きがそっちではないどこかに行き先を変える力を持っているわけでもない。
 タクシーが走り出すと、まもなく海が見えた。沈みつつある太陽を雲は一切隠しておらず、水面には橙色の太い線が光っている。橙色の光はまっすぐで、誰もその直線を曲げることはできない。誰も光をつかめないし、たとえ光がふくらんでつかめるようになったとしても手のひらが触れたそばから熱に焼かれるし、ありとあらゆる自然は自身の暴力性にいつだって無自覚なので——ふと、水平線に断たれて落ちる太陽を長い間、本当に長いあいだ見ていないと思った。見る時間は、これまでもきっとあった。それでも私は見ない時間を選び、見る時間を選ばなかった、ことになる。といってもこれは、きっと取捨選択ではない。閉場間際に流れていた蛍の光の聴こえ方とおんなじで、見ないことからは逃れられなかった。いや、逃れられても逃れられなくても関係ない。きっと私は見ない状態に向かっていた。そして、見なかったものは水平線と太陽だけではないような気もしているけれど、何を見てこなかったのか、今は思い浮かばなかった。そもそもこんなことにふさわしい答えを求めても仕方がない。
 左手でそっと首に触れると、肌がべたべたする。ずっと海辺にいたから発生するべくして発生した状態だろうけど、肌をべたつかせるためにわざわざ来たわけじゃないことを思うと、ほんのちょっとだけ嫌だった。が、ホテルに着いたら真っ先にシャワーを浴びればいいだけの話に過ぎないので、良くない気分を追加したまま海沿いドライブを続けるのはもったいない。景色に集中すればいいだけの話だ。
「窓って開けてもらうことできますか?」
 承知しました、と運転手さんが前を向いたまま言うと、左側の窓がひらいた。車内に入ってくる外の空気は流れがはやい。髪は空気の動きに任せて、背後にひたすら浮遊している。夏のぬるい外気に、香りがないと思った。海の、この世に生まれたすべての人工物と非人工物を、そこで煮詰めてゆっくりと冷ましたような、変に鼻腔を刺激するあの微かににがい匂いもない。だとしたら、私の鼻は何を嗅いでいるのか。香りのない香りを嗅いでいる、と断定してもいい。海面で揺れる無数の光と影が美しいので、香りは必要なかったことにできるし——でも、きっと——いや、今はこれでいい。




 できるだけ海沿いを、と言ったのは私なのに、もう飽きてしまった。はっきりと認識できるのは音だけで、果てしない海の景色や香りのない香りを、私は容認することも拒絶することもできなくなった。海たちは確かにそこにあるけれど、存外な過剰摂取によって、私の中からは弾き出されたのだと思う。だとすれば、音も弾き出されていいはずだった。が、私の耳はタクシーの走行音と後ろに流れていく空気の音を認めることをやめず、私は音を、確かに聴いていた。
 何かあったんですか? と運転手さんの声がしたのは、赤信号にかかった時だった。そこで、背の低い山のようなものを切り開いている1本の道路と海沿いの道路が交わっている。青信号を進む人や車は全くおらず、赤信号で止まっているのも私が乗っているタクシーだけだった。どっしりと構えた景色を見たのは久しぶりだった。といっても、何週、あるいは何ヶ月、またあるいは何年もそれを見ていない事実はない。海までやって来るのに山を越える必要があり、いま現在窓の向こうに広がっている光景に似たそれを、私は今日の朝見ているはずだった。やっぱり海を摂り過ぎたのかもしれない。
「こんなことをお尋ねしてもいいのかどうか分かりかねますが」
 分かりかねるなら聞かないでよ、と思ったけれど、こんなことでいちいち腹を立ててちゃいけないとも思った。私は海から運転手さんの地肌の透けた後頭部に視線をずらすと、いつの間にか青みが増した空を背景にしてぼんやりと浮かんでいる信号の赤が、不気味だった。
「急にそんなこと聞きます?」
「失礼いたしました。暗い表情をされてたのでついつい」
「まぁいいですけど」
「え?」
 ハンドルに伸びる運転手さんの腕の真っ直ぐさが、理由もなくおかしかった。このおかしさには理由がないので、私は感情に身を委ねてふっと笑うことしか——いや、今は別に笑わなくてもいい。
「このあたりに自販機あります?」
「自販機ですか?」
「はい、自販機」
「それならここからすぐのところにありますよ、道の駅なんですけど」
「寄ってもらってもいいですか?」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ、それが僕の仕事なので」
 さようですか、と思ったけれど口には出さず、この信号で初めて目撃した私たち以外の車が左折した。車はまもなく視界の後方に消えていく。
「運転手さんも何か飲まれます?」
「え?」
「奢りますよ、海沿いドライブ付き合ってもらってるので」
「いいんですか?」
「いいって思ってなかったらこんなこと言いませんよ」
 じゃあ、と運転手さんが口にすると、信号が青に切り替わり、タクシーが動いた。
「お言葉に甘えて」
「何飲みますか?」
 細く伸びる街灯の青黒い影が、まるで私の身体をスキャンしているみたいに、足元から頭まで通過していく。
「何でもいいんですか?」
「何でもいいですよ」
 街灯のある度に私は影にスキャンされてしまうので、私のコピーがどこかに発生するかのような恐怖を覚える。
「じゃあネクターで」
「え?」
「ネクターでもいいですか?」
「いいですけど、ネクターがいいんですか?」
 でも、私のコピーがどこかに発生したらどうして私が恐怖を覚えなければいけなくなるのか、よくわからない。
「好きなんですよね、昔から」
「さようですか」
「さようです。おかしいですか?」
「え?」
 影ばかり追っていた視線が運転席に向き、視界は発光する。眼球の北極あたりで発光は収束し、見えているべきものたちに輪郭が戻った。
「にやにやされてるので何かおかしいのかなと思いまして」
「にやにやしてますか、私?」
「おそらく」
「なんかごめんなさい」
「謝る必要ないです、そりゃにやにやしますよ、老体にネクター飲みたいって言われたら」
「じゃあお言葉に甘えて」
 私は明らかに笑った。運転手さんも笑い、そのまま、あれです、と言って右手の人差し指をフロントガラスに向けた。
「あれが道の駅です、あそこから入りますね」
 道の駅の名前がかかれた看板に視線を向けると、右隅にある喫煙所のマークを捉えた。
「運転手さんってタバコ吸われますか?」
「タバコですか?」
「はい。吸われますか?」
「昔は吸ってたんですよね、六年間、禁煙成功してます」
「そっかぁ」
「すいません」
「謝る必要ないですよ。もし吸われるなら一緒に吸ってもいいかなぁって勝手に思ってたのは私なので」
「すいません」
「謝る必要ないですって」
 でも、とハンドルを切りながら運転手さんが言う。
「1本くらいなら付き合いますよ」
「え?」
 右折が終わり、平家造りの道の駅をはっきりと捉えた。丸太の外壁はひどく滑らかに光っていて、本物の木ではないのかもしれない。平家からのびる屋根付きの廊下を進んだところにトイレがあるけれど、喫煙所らしき場所は見当たらない。
「六年間禁煙してるって言っても、誘われた時に吸うんですよ、たまに。2本までですけど」
「2本まで」
「ええ、2本まで。もちろん貰えるならですけど」
「ちょっとずるくないですか、それ?」
「ずるですか?」
「はい、ちょっとどころじゃなくずるな気がします」
「じゃあそういうことにしてください」
 駐車音が聴こえる。フロントガラスの向こうには駐車場が広がっていて、駐車場の向こうには道路がある。道路と海を隔てるコンクリートが低い。ので、光はすべて窓にぶつかって荒い粒になり車内に散らばる。それらは細胞の隙間に音もなく染み込んでいく。光の浸透している場所は特に、首の根元と肩甲骨の上あたりにあるくぼみだと思う。私はそこの名前を知らない。光はそこから私にはいり、上半身の芯を通って、背中の下部、たぶん背骨の末端から外に流れる。老廃物を携えた流出の、いや、流出というよりそれは噴出に近く、光が体内で運動を終えて喜んで死んでいくような解放感を覚えた。が、解放の温度——そもそも解放の温度なんてよくわからない——の低くないことだけは確かで、運動は温かいのかもしれないし、熱いのかもしれない。
 駐車音が聴こえなくなったので、タクシーが止まったとわかる。私は肩を後方にぐるりと回して、首は時計の針が正常に回る方向に動いた。左太腿に斜めに倒れているショルダーバッグのファスナーを開け、タバコとライターを取り出す。右側のドアが開き、視線を向けると運転手さんがいて、どうぞ、と声がした。


 左手に握っているネクターが冷たく、中指と薬指の第二関節あたりを極端にひやされている気がする。私もネクターを買ってしまった。運転手さんに便乗したからではない。どんな味がするのか思い出せないから飲んでみたい。単純な動機だった。動機が単純だったということはつまり、いや、つまりのその先にはなんにもない。
 タバコを咥え、三秒吸って離し、唇を結ぶ。結んだ唇を、ぺちゃんこになったどら焼き——どら焼きよりかはナンの方が適しているのかもしれない——の厚みくらいにひらき、すかさず再び三秒吸って、煙を残さず取り込んでから、二秒で吐く。吐いてしまった煙は海から吹く風に抵抗する術を持っておらず、成仏間近の幽霊みたいになよなよとしている。吐けども吐けども景色に飲み込まれてしまい、香りだけが浮遊している。
「おじさんも好きだったな、ネクター」
「おじさん?」
「母の弟です、もうずっと会ってないけど」
「さようですか」
「さようなんです。元気かな」
「元気だといいですね」
「もう死んでるんじゃないですかね、不健康そうだったし」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「縁起でもないですか?」
「ええ」
「死んでてもいいじゃないですか。おじさんが死んでようが生きてようが私はここに来てましたし、死んでようと生きてようと運転手さんには私から料金が支払われる。彼の消息は今の世界に無関係だと思いますけど」
「冷たいですね」
 はは、と私が笑っている。
「冗談に決まってるじゃないですか」
「だといいんですけど」
 駅舎とトイレをつなぐ渡り廊下の奥にある喫煙所からは柱によって分断された海が見える。太陽は消え、空の端っこに橙色が滲んでいるだけだった。この橙色もタバコを吸い終わる頃にはなくなっていて、私の旅が夜には休息を迫られる。
「ここの海、おじさんとドライブしたことあるんですよ。父の葬式の時に」
「そうだったんですね」
「そうだったんですよ。どこか行こうかなと思ったのに行き先が思いつかなくて。かろうじて思考が到着したのがここでした」
「よく来てくれましたね、こんなところに」
「こんなところって、やめてくださいよ。海はある」
「おっしゃる通り」
「うちの親、私が小さい時に離婚してて、母とはそれ以来一度も会ってなくて。父の葬式にももちろん母は来なかったんですけど、おじさんはなぜかずっと父と仲が良かったらしく来てくれて。で、なんか、多分私が泣いてたんでしょうね、火葬の後に美味しいご飯食べに行こうって連れ出してくれて、父が焼かれてる時に出されたお弁当を食べた直後なのに。もう何食べたか覚えてないですけど、その帰りにここに来たんです。窓を開けて、ひたすら海を見ていた」
「優しい方だ」
「ですよね。あの時間のおかげで、父の死の、ちょっと格好つけた言い方をすると輪郭みたいなものを、正面から見れるようになった気がします。そもそも大切な人の死を乗り越える必要性って私、全く感じないんですけど、とにかく私は私で生き続けるしかないなぁって」
「ネクター好きのおじさんもなかなかいいところありますでしょう?」
「ですね、ありまくりですよ、ほんとに」
「ネクター好きな人に悪い人はいません」
「おっしゃる通り。でもただ、今でも何それって思ってることがあるんですけど、おじさんね、悪い人ではないですよ、悪い人ではないんですけど私のおじさん、変な仕事してたんですよ。変な仕事というか、まぁそうですね、変な仕事しか言葉が出てこないんですけど、なんにも入ってないバッグを百貨店に入ってるテナントごとに届けて、テナントからはまた別のなんにも入ってないバッグを受け取るっていう。なにごちそうしてくれたのかは思い出せないのにこのことだけはなぜか鮮明に覚えてて、たしかメール便って言ってたかなぁ、何も知らせることがないのにそれを届けたり受け取ったりする仕事で、知らせることがある日もあるにはあるけどほとんどないみたいな、そういうやつ。で、私、それやる必要あるのって思って。なんにも知らせることも知らされることもないのに、わざわざバッグの中身の有無でそれやる必要あるのかって思っちゃって」
「たしかにお客さんの言う通りだ」
「多分それ以外にも業務はあったんでしょうけど、メール便だけほんとに無駄じゃない? と思って。で、言ったんですよ、私、おじさんに。なんでそんなことを仕事にしているのかって」
「聞いちゃったんですか?」
「笑っちゃいますよね。聞くべきじゃなかったと今では思ってるんですけど」
「成長したんですね」
「成長って、やめてくださいよ。成長してようがしてなかろうが聞いてます、多分。まぁとにかく聞いたんですよ。そしたらおじさんしばらく何も話さなくなっちゃって」
 あらら、と運転手さんが言う。私は彼の反応が終わるのを待つために、ネクターを飲んでタバコを咥えた。その場で両足の位置をいじると砂利の擦れる音がする。
「面子がくじかれたんじゃないですか?」
「だと思うじゃないですかぁ、そしたら全然違って。なんで俺はこんなことしてるんだろうって独り言みたいにつぶやいたんですよ、笑顔で」
「笑顔で?」
「そう、笑顔で。で、私それにびっくりしちゃって、びっくりしちゃってというかよくわかんなくなってしまって。おじさんは何に対して笑っているんだろうって考えても考えても考えてもなんにも思い浮かばなくて」
「どういう状態だったんですか車内は?」
「思い出せないんですよそれが」
「思い出せない?」
「思い出せない。私がずっと海を見ていたこと。おじさんが変な仕事をしていたこと。私がおじさんの仕事を無駄じゃないかと言ったこと。そう言われたおじさんが笑いながらつぶやいた独り言のこと。これ以外思い出せないんです。それからどうなって、どうやっておじさんと別れて、帰った後何をしたのか、あるいは何をしなかったのか、全く思い出せないんです」
「おじさんのせいで記憶が歪んでしまってるじゃないですか」
「ほんとですよ、メール便のせいで記憶歪んじゃってるんですよ。歪んだ記憶とその記憶の空白を埋める時間のおかげで父の死と対決できたのは確かなんですけど」
「となれば笑い話ってことにしてもいいんじゃないですか?」
「笑い話かぁ。それも一理ありますね。笑い話のおかげで私は今も生活できているのかもしれないですし」
「その話だけでも死んだおじさんが天国で報われますよ」
「そう言われるとほんとに死んでる気がするんでやめてくださいよ」
「すいません」
 私たちは笑う。タバコがフィルター間近まで燃焼してしまっているのに、まだ吸わなければならないと思った。まだ吸わなければならないと思ったということは、運転手さんにもう1本のタバコをあげる必要がある。赤の他人にタバコを2本もあげてしまうなんてもったいないのかもしれないが、運転手さんにならあげてもいい。なぜなら彼は私の海沿いドライブに付き合ってくれているし、でも、私が対価を支払うことによって彼は私の海沿いドライブに付き合わなければいけないし、彼の行動は全てそうあるべくしてあるものであるし、それなのにネクターとタバコを与えられているのはどう考えても、いや、どう考えようとも意味がない。私があげたいと思ったのなら、私はタバコをもう1本あげなきゃいけない。これはとても当たり前のことだ。
「もう1本、吸いませんか?」
「いいんですか?」
「いいですよ。2本目まではいいんですよね?」
「そういうことにしてます」
「じゃあ、どうぞ」
 運転手さんにタバコとライターを手渡した。ライターから火が現れて、すっかり暗くなった視界に運転手さんの顔がぼんやりと浮かび上がる。ふと、老いた太陽はこんな顔をしているのかもしれないと思ったけれど、よくわからない。


「砂浜にね、ずっと描いてたんですよ、母の顔」
「母の顔?」
 私はおぼろげに地面を眺めながら、温度の上昇したネクターを握り直して、唾を飲む。ネクターのせいで唾の濃度というか粘度というか、そういう数値が高くなっていて、のむヨーグルトとかおくすり飲めたねを胃に落下させる時と同じような感触が喉を刺激した。
「私が描けるのは3歳の時の顔だけなんですけど」
「3歳の時の顔?」
「3歳の時の顔です。3歳の時に両親が別れてるので」
「なるほど。じゃあ当時を思い出しながら砂浜に顔を?」
「思い出せることもほとんどないですよ、顔以外は。顔だって、私の頭の中に浮かんでるだけで、実際とは違うかもしれないですし。偶像ですかね、失われた母を求めて」
「どうしてそんなことを、というのはお聞きしてもいいんですか?」
「いいんじゃないですか?」
「じゃあ、どうしてそんなことをされてたんですか?」
「離婚したんですよ。私が不倫して、その果てに離婚。娘がいたんですけど、元夫と一緒に行ってしまって」
「そうだったんですか」
「そうだったんですよ」
 でも、と言った運転手さんが煙をゆっくり吐く音がする。
「どうしてそれでお母さまの顔を?」
「母に逃げられたと思ったんですよ。だからずっと恨んでて、母のこと」
「恨んでたのに砂浜に描いてたんですか?」
「恨んでたから描いてたんですよ。あなたの娘もあなたと同じような経験してますよ、どうしてくれるんですか、責任取ってくれるんですか、責任取るつもりないですよね、あなたは私から逃げたんですもんね、自分勝手に自分だけを大事にして生きていくことにしたんですよねって感じで、呪いをこめて」
「呪詛してたんですね」
「呪詛してました母を。でも同時に、恥じらいが湧いてきて。恥じらいというか、自分で自分に傷をつけるというか」
 その心は? と運転手さんの声がして、ふと、街灯の影にスキャンされて発生したかもしれない私のコピーを思った。
「私は母が逃げたと思ってたのに、私は娘を奪われたと思ってしまっていた。元夫ではない人と関係を結ぼうと決意して結んだのは私なのに、娘の親権を失ったら失ったで悔しいなぁとか、会いたいなぁとか思ってたんです。だから母も、私を父に奪われたと思ってたんじゃないかと思って。(もしかしたら私自身が影によって発生してしまったコピーで、私の原本はここには存在しないんじゃないかなぁと思っていて。でもこんな発想ってフィクションの中でしかできないじゃないですかぁ。だから、私は虚構の中にのみ生きることが許されているんですよ。つまり、私の経験はすべて、小説や映画や漫画といった限りなく嘘に近い現実を用いて誰かが作りあげたものなんじゃないかなって。で、その手段を消費する人たちが追体験するためだけに私の経験がその存在を求められているんだったら、私が経験することによって喜怒哀楽を感じる必要は全くもってないんじゃないかなって。それならば私は喜怒哀楽を感じているふりをして消費者の同情をあおればいいだけの話じゃないですか?)」
 発した言葉と心情の乖離で目が回りそうになったので、コピーについては考えないことに決める。
「なるほど」
 でもなんか、と言って私はタバコの灰を落とした。
「母の顔を描いては波に消されて、描いては消されてを繰り返すうちに心が変身していったんです」
「変身?」
「本性の顕現ですかね。それに安堵する自分が発見されてしまいました」
「お母さまの顔を砂浜に描いた甲斐があったってことですか?」
「そうなるんですかね」
「そうなってるといいんですけど」
 だから今はもう、と口に出してタバコを咥えた。それから三秒吸って離し、唇を結ぶ。結んだ唇を、ぺちゃんこになったナンの厚みくらいにひらき、すかさず再び三秒吸って、煙を残さず取り込んでから、二秒で吐く。
「娘なんてどうでもいいやって感じです」
「どうでもいい?」
「そう、どうでもいい。どうでもよくなっちゃったんですよ、心底」
 はは、と運転手さんが突然笑う。と同時に、スピーカーから蛍の光が流れ始めた。営業終了時間が迫っていて、このタバコを吸ったらタクシーに戻らなきゃいけない。砂利から視線を上げてみるけど、海は見えない。道の駅の裏に生えているはずの樹々が、海風の湿気と既に沈んでしまった太陽の熱によって蒸された甘い匂いがして、季節が夏であることを思い出した。季節は夏で、昼が長く、夜は短く、私は一人でここに来て、ずっと砂浜にいて、今は一人じゃなくて、隣にタクシー運転手がいて、二人でネクターを飲みながらタバコを吸っていて、私がもはや娘なんてどうでもいいと言ったら運転手さんは突然笑い始めて、どうして運転手さんは笑っているのか、ということについて考えてみようと思ったけれど、隣に答えがいるのだから、私はそれについて知ることができる。
「どうかしました?」
「いや、あまりにも姉さんに似てると思って」
「え?」
「いやあのぉ、僕の姉も同じこと言ってたんですよ。お客さんと一緒で姉も結婚後に女の子を授かったんですけど、生まれて数年後には姉の不倫が原因で離婚しちゃって、親権は夫、僕からみれば義理の兄が持つことになって。離婚してからその子には会ってなくて。家賃も節約できるってことでしばらく姉と二人で暮らしてたんですけど、二人で家で飲んでる時だったかなぁ、笑いながら言ってました——。

(了)

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