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存在価値・理由のこと

「何ができるか・何をしているか」以外のあなたの価値ってなんですか?
DoingではないBeingの部分、あなたの存在価値ってなんですか?

という問いについて考えてみたいと思う。

価値って表現はピンとこないのだけれど、生きているだけで意味があると思っている。だって、どんな経験にせよ経験することが生きている目的なのだから。ヨーガの経典 ヨガスートラも、そう語っている。

人や社会から価値判断されたとして、だから何?って自我が芽生えた頃から思っていた。そして次第に、見ているものや感じていることが違うんだなって認識するようになった。そんな生き方は孤独だが、良くも悪くも自我が強いので人や世間に合わせて生きる方が我慢ならないのだ。
価値のあるなしは第三者にゆだねるべきじゃない。だからこそ、人の選択を尊重するよう努めている。ま、言い合いになったりもするんだけれど、最終的にはあなたはそう考えるのだねっていう感想しか持たない。

一方で、価値(スキ)を感じているから一緒に過ごしたり関係を築き上げたりするわけで、私に価値(スキ)を感じてくれたら嬉しいなっていう気持ちでいっぱいなのも真実。でも、関係性に対価を求めるのも求められるのも嫌だし、そういう努力はしたくない。

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ものの見方や考え方によって生産性のあるなしも変わるし、共通認識なんてない。そもそも働くことだけで生産性を評価するとか、ちょっと奴隷っぽい。
人は複数の役割をこなしながら生きている。娘として、妻として、母として、友だちとして、、みたいなことから、社会的役割も複数あったりするだろうし、ある特定の期間だけの役割(恋人とかライバルとか)もあるし。つまり、生産性のない人なんて存在しないってことになる。どんな人生にも意味がある。

時には自分で自分を無価値だなって思うこともあるけれど、どうありたいかどうなりたいかは分かっているから、そこに引きずられない。足踏みしたり、回り道しながらも、ただただ突き進んでいくだけだ。

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脚が動かないなどの体の症状と違って、マインドの引き起こす不具合は説明が難しい。だが、私たちは体(骨格筋や脳や内臓etc.)だけで作られているわけじゃない。マインド(思考)がスタックしちゃうこともある。そう、インド哲学で思考は脳の働きじゃない。場所もハートに位置する。したがって、心と表現されたりするわけだ。

話を戻して、同じ思考にとらわれてしまう、または思考が働かないなどの時、これはマインドの不具合なんだなという認識を持つことや、対処法を持つことは必要かなと思うのだ。

マインドの不具合はいつだって誰だって起こる。それが過度になりすぎると、マインドが暴走(Rajas)してしまい、暴走した後には無気力(Tamas)になる。そういった極度のアップダウンは放置してはいけない症状だ。もしも考えすぎている自分を認識したら、縄跳びとかしてみたらいかがだろうかと思う。ま、縄跳びじゃなくてもいいんだけれど、縄跳びって結構集中力を使うよねって思って。そう、対処法のポイントは集中。


そんなわけで、インスピレーションを感じたnoteから考察してみたMika(@mikachant)でした。

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