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女の幸せ

乳飲み子を背負った女が言った。
 「わてら、この人失くしたら生きて行けまへん」
 
 年明けの新歌舞伎座の舞台で毎日このセリフを聞きながら、私は胸がしめつけられるような切ない思いでいた。
 三年もの長い月日、敵を探して江戸から大阪へ流れ着いた武士の兄弟を前にして、町人に身を落とし暮らす男の命を乞うために女房となっていた女が地に額をすりつけ懇願する場面である。
 粗末な態の男は武士であった面影すらないが、大阪の地でこの女と出会い、子をもうけ、乏しいながらも幸せに暮らしていた。
 
 その芝居の場面の小道具として小さな風車が使われた。懇願する際、女の手から離れ落ちるのだ。
 私は、千穐楽までその風車に泣かされ続けた。
 役者の迫真の芝居セリフをふわぁーっと頭のまわりで聞きながら、風車から目が離せない。その小さな紙細工の中から湧き出てくる、男と女の暮らしぶりを思わずにはいられなかった。
〈女の幸せって、何なのだろう〉
 私は、演じている役の上での女として、また私自信のこととして冒頭のセリフを聞く度にそんなことを考えていた。
 
 「この人失くしたら生きて行けまへん」という言葉の中には、愛するこの男を失くしたら悲しみで生きては行けません、というだけではなく、「生活して行けまへん。食べては行けまへん」という、下世話な臓もつも詰まっている。
 他に額をすりつけて懇願する姿を見て切なかったのは、乳飲み子を背負った女を憐れに思ったわけではなく、私には羨ましいくらい幸せに見えたからなのだ。
 男との間に授かった子と男のことを、ただひたすら思い生きることしか出来ない女。
 愚かに見えても、下等に見えても、じつは一番幸せを知っている女なのかも知れない。
 私は、女の幸せを何だと思って生きて来たのだろうか。
 あの芝居の中のセリフは、私の心の中にコンと小石を投げた。
 
 じつは、「王将」の小春を演ったとき、私は、女として小春という人物をあまり好きにはなれなかった。
 無知で無学で、何か起こればただオロオロと夫に縋り、出来ることといえば飯を炊き、子を産み、夫のためにただひたすら拝むこと。
 挙句の果てに、四十七という若さで死んでしまう。
 実在の人物であるが、この女性の人生は何だったのだろう。演じながら、幸せを見つけることが出来ず悲しくなっていた。
 今から、ちょうど六年前の春の舞台のことである。
 

「王将」にて小春を演じる


 もし、今、もう一度この小春という役を演じることが出来たら、私は小春の身を借りて女の幸せをしっかりと感じることが出来ると思う。
 上手い言葉が見つからなくてむず痒いが、女の幸せってのは、なーんにもないところにしか転がっていないような気がしてきている。

2015年4月号 MFC会報エッセイ「こころの中の旅」より


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