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そうだ、やっぱり小説家になろう

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自己紹介を兼ねて、私が小説家デビューするまでの状況を綴っています。 #自己紹介
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2020年5月の記事一覧

激レアの経済小説家はひたすらユニークな人生を行く

三度目の最終選考。 会社を辞めてから2度目の挑戦である。 私は全部違う出版社の違う賞に応募している。 なぜこんなにあれこれ浮遊するのか。 それは私が所属するジャンルがないからだ。 何人かの編集者から言われたことがある。 「どの本棚に入れたらいいのかわからないんですよ」 そうだ……小説にはカテゴリーがある。 ミステリー小説、ファンタジー小説、ホラー小説、恋愛小説などなど。 結局私は経済小説というカテゴリーを選んだ。 さて、選考会。受賞作を選ぶとき、高杉良先生と幸田真音先生の

一行でも売れたらプロの文筆家

2008年、私は城山三郎経済小説大賞をいただき、ダイヤモンド社から「ロロ・ジョングランの歌声」を出版した。 以来、KADOKAWAや中央公論新社からも小説を出版している。 でも、小説を販売して生計を立てるにはほど遠い。もともと経済小説は取材が大変な分野で、経費が掛かる。私はODA業務で様々な国に行き、調査に慣れているので情報収集能力に長けていると思が、あくまでも報告書を書くための情報であって、小説のためのものではない。だから、まじめに一冊書こうとすると、印税よりも取材費の方が

小説新人賞の受賞戦略とは

最終選考で落ちた私は、選評を何度も読んだ。そしてWEBの小説コンテストの受賞ノウハウのような記事を読み漁った。 そしてわかったことがある。 最終選考まで残る小説は技術的にもストーリー的にも遜色はない。でも、その出版社や審査員の嗜好に合致していないといけないのだ。 私が選んだテーマは国際協力の現場。 舞台は内戦終結から間もないカンボジア。復興のための調査で地雷原を行く日本人女性と、ぶつかり合いながらも友情をはぐくんでいく相手国の登場人物。地雷原を抜け、誘拐やテロ、空爆に遭遇

小説新人賞の最終選考落選の知らせを受けたとき(泣)しかも2度目(号泣)

400字詰め500枚を書ききって、1次選考、2次選考を通過した作品は、最終選考に残った。 10年前に経験して以来二度目の最終選考。 本当に、長かった。 長いなんてもんじゃなかった。 仕事は続けていたので、忙しさが救いだったかもしれない。 でも、ふと、トイレに行ったとき、車で移動しているとき、寝る前……。 怒涛のように不安と期待が押し寄せる。ボロボロなメンタルを人に悟られないよう、笑顔と気合で仕事をした。 そして最終選考の日が来た。 朝から待っているのに、連絡は来ない。 ダメ

小説を書くため会社を辞めるって無謀じゃね?

小説を書こうと決心したとき、まず始めたのが貯蓄。 会社に退職を申し出て、本当に辞めたのはその2年後だった。 会社を辞めなくても小説は書けるのではないかと思う。でも、私の場合、10時出勤で10時退社が当たり前。深夜の最終電車も珍しくなく、徹夜もありで、土日も頻繁に出勤していた。だから、このペースを落とすということは、退職するしかなかったのである。今でいうブラックだが、当時は当たり前だった。 仕事が遅いから業務が長くなるという批判があるかもしれない。全否定はしない。その時の私は中

小説を書くためにお金を貯めろ(!?)

「これ以上小説を書くことをお勧めしません」 そう編集者に小説家失格を宣告され、10年近く小説を書くことをしなかった私。 その私が、なぜまた小説を書き始めたのか。 答えは簡単だ。 結局私は書くことをやめられなかったのだ。 私が従事していた国際協力の仕事とは、主に開発調査と言われるものだった。若いうちは、開発案のプロポーザルを書き続けた。プロポーザルを読んだ先輩社員は「松村さんのプロポーザルを読んでいると、できる気持ちになってくる」と言われた。「小説みたいに惹きこまれる」とも

小説家ってなんだろう

「小説家になりたい」という人って結構いるみたいだ。 でも、小説家ってなんなんだろう。 私は30代で初めて小説を書いた。 大手出版社の新人賞に応募して、二次選考まで通って、 「へぇ、案外行けるもんだ」 と、最初は甘くみた。 2作目はもっと行けるんじゃないか、と調子に乗ってまた書いた。 確かに、2作目は最終選考まで残ったけれど、こっぴどく酷評されて落とされた。 私としては不本意な選評だったが、3作目も書いてみることにした。 3作目は知人を介して大手出版社の編集者に原稿を直接渡す

小説家になるということ

27歳の時にアジアの専門書を扱う出版社からエッセー集を出した。その時、編集者から言われた言葉が、それからの私にずっと付きまとっていた。 「君の文章は小説が書けるよ」 は? 何言ってんの? という感じだった。私は小説など書いたことがなかったし、嬉しかったけれど、何の現実味もなかった。そんな夢みたいなことを追いかけても食べていけないことはわかっていた。 だから、文筆業よりも国際協力の仕事を選んだ。学生時代は新大久保にある「国際学友会」という留学生寮で住み込みボランティアをしていて