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思うことアレコレ『ミー子とヤー子にしてあげられる事』

 自分が幸せかどうかは、きっと当人の感じ方の世界で、どこまでいっても他者が介入できない。嬉しそうにしていると、きっと幸せなんだろうと憶測はできても当人が本当のところどう感じているかは分からない。特に人間みたいに思考と感情が複雑に絡まり合ってる生き物は。はたまた当人の心は喜んでいても魂が腑に落ちているとも限らない。

 だけれど、動物、私が今関わり観察できるヤギ2頭ミー子とヤー子は、人間よりはシンプルで分かりやすい気がする。この2頭に思考が存在しないとは言い切れない。けれど私が2頭に対して憶測する感情と、当人の抱いている感情は大体一致している、そんな気がする。そして少なくとも人間よりは自分の感情のままに動く生き物だと思う。取引したり、損得を考えたり、相手を想うが故に自分の感情を押し殺したりが人間と比べると極めて少なくて、感情と行動が一致していると感じる。快適を求め、不快から身を遠ざけ、欲望を満たす為にストレートに行動する。好きなものから食べて、食べたくないものは食べない。それでいて何か空気感を察して動く。そんな生き方がすごく好きで、尊敬している。

 そんな2頭を囲っておく事が、2頭にとって幸せなのだろうか?と葛藤する日々がここ3ヶ月続いている。沖縄の離島から引越し、新天地にヤギ拠点を構えるべく、突貫工事の小屋と柵作り、人間の目線で最低限の安全確保と快適さを提供するところまでようやく辿り着けたと感じている。けれどこの2頭はその環境をどう感じているのか、、

 人間世界で飼育してきた生き物を自由に意思決定ができるように自然界に放つ、別の言い方をすると、捨てると言う事になる。今は様々な法律で人間が動物を保護・愛護する制度や、感染病拡大による経済的な損失を減らす為の制度が様々取られている。けれど、その制度は人間の独りよがりになってしまっているのでは、、と感じる。かといって、例えば狂犬病などの動物が感染源となり治療法が無い病から身を守れるなどの恩恵も法律からいただいている。

 ミー子、ヤー子2頭に話を戻す。私は30分近く車を走らせて牧場に毎日通うのだが、その度に歓迎を受け、帰る時は寂しそうな鳴き声を振り切りながら帰る。情が通い合ってると認識している。それ故にこの2頭と共にいたい。2頭にとってその情とはどこからもたらされるのだろう。この2頭にとって私は餌の提供者で放牧もしてくれるライフライン。その状況が変わったとしたらどうなるのだろう。

 この2日、脱柵できる状況を作っている。自分次第で柵の外の草木も食べられるし、小屋にも戻れる。人里でこの試みを許してもらう承認をいただいてないが、始めてしまっている。

 柵の外の世界は車が走り、そこからだいぶ遠くへ行けばイノシシの罠があり、野生動物にも出くわす。

 柵の外の世界と柵の中の世界を選べれる。ミー子とヤー子にしてやれる私なりの事。自分の中には、まだ明らかに2頭との間に生まれている情に執着がある。

 私の切なるの願いは、
「あー、そうか、これがミー子とヤー子の幸せなんだな。」
と、ストンと腑に落ちる事。という事は2頭の為というよりは私自身の為。2頭を私の情で振り回してしまっている罪悪感を解消したいだけなのかもしれない。幸せと感じられる現象は様々だから、腑に落ちる落ちないも私次第なのかもしれない。かと言って、今、ミー子とヤー子が不幸せそうとも感じられない。ヤギらしくなんて事にすら縛られず、したいようにしてほしい。

 今は、ミー子、ヤー子に出会い共に生きられる事、それを支えてくれる両親がいる事に心から感謝している。

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