「推す」ことと自己責任論

ロイターの記事に、安倍首相のコロナの対応を「臆病でナメクジの様に遅い」と書いていたとのこと。

しかし、遅いのは問題として、臆病だったらまだいいわ!と思ってしまう。むしろ「臆病でないこと」のほうが、より危機に近づいてしまう気がする。よく女性のリーダーがいる国のほうがコロナ対策が成功していると言われるけれど、もしそれが本当ならば、「臆病になること」に心理的なハードルが低いということも少しは関係しているのではないかと思えてくる。

今日はほかにもTwitterでは新型コロナの影響で経済的に苦しく、推しに使うことができないというはてな匿名ダイアリーの記事をみる。

確かに昨今は過剰に「積む」という文化があって、それは、ここまで過酷な状況でない限りは自分で選んでやってることであるから容認されてきていたけど、今は自分の生活を一番に考えて正解だと思う。

しかし、そういうシステムが過剰になることは確かに不健全であったのではないかと考えてしまった。そして、昨日Twitterで、これに対しては、システムが悪いのではなく、それに過度に乗っかった本人が悪いのではという意見も直接投げられてしまった…。

いやいやいやいや、それこそが自己責任論ど真ん中。もしも自分は冷静に適度に関わっていて、第三者は冷静さを欠いているように見えたとしても、その人よりも、消費者を過度に煽るシステムだとわかっていて採用するほうが私は罪深いと思うよ…。ただ、その「過度」の線引きはどこからなのかは難しいけれど。

あと、なんでもないときなら、私もそれで喜びが得られるのなら…と思ってたところもあったし、こんな話にはならないわけで、今がどんだけ非常事態かってことだなと。

それと、今これが議題にのぼるのは、民間での経済的な苦しさを、民間人同士でしか支えあえないことに対しても疑問を持ち始めたからだと思う。それって、国の補償がないことともものすごく密接につながっているからこそなんだなと思う。

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