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ビジネス書が「なんか嫌」なワケ


物心ついたころから「なんか嫌」だった

ビジネス書を愛読している社会人が多い中で、こんな事を言うのは憚られますが、私はビジネス書が「なんか嫌」です。

意識低い系人間だからだよ!とツッコミを受ければ、何も反論できません。事実「ビジネス書を積極的に読んでいる」と積極的に公言するようなビジネスマンは、私より良い待遇や評価を得ている場合が多いと感じます。

ただ、一つ言い訳をするならば、私は本嫌いの人間ではありません。幼い頃から読書が好きで、エッセイから学術書まで。つまりライトな本から論文に準ずる専門書まで、それなりに本を読んできました。

何故、本好きなのに「ビジネス書」だけが嫌なのか。
今回はこの気持ちをマジメに分析したいと思います。


1:お金の香りがするから

1つ目は、お金の香りがするから。
わかっています。この資本主義社会で、本を売る、イコール出版によって利益を得る事がゴールだということは。

しかし、です。本屋に平積みをされているビジネス書を見ると、大体の書籍にこのような文言が踊ります。

成功者のバイブル。これを読まなきゃ社会人失格。こう言った習慣は人を幸せにする。著名人も同じ方法で資産を得た、幸せになった。

あぁ〜よく見るなって感じの帯を勝手に考えてみましたが、どうでしょう。よく見ると言う事は、社会一般的にこの手の広告が受け入れられている、という事でもあります。

でもさ、ちょっとここで言わせて欲しい。
それ、玄関先でピンポンされて、見知らぬ笑顔の誰かに言われても受け入れられますか?

「この壺を買ったら幸せになれますよ」「この水晶で成功間違い無しです」「お金持ちになった人は、みんな買ってます」「あなたの年代で持っていないのはどうかと思います。」

はい!めちゃくちゃに怪しい!
押し売りと宗教勧誘のテンプレフレーズにそっくりです。
でも、壺とか水晶を「ビジネス書」に差し替えれば、それは広告として許されてしまうんですよね。そこに、違和感を感じます。

別に、宗教勧誘だって許されているといえば、ピンポンにくるくらいですし、許されています。しかし、そういった活動は、警戒心を持つべきものとしてある程度認識されていて、場合によっては「無条件には歓迎しない提案」「効果や言い分に疑問が残る推奨」としての立ち位置を確立しているようにも見えます。
(実際、芸人のネタで勧誘活動を模した物を見た事があります。コンビが立っていて、ただ上記のテンプレフレーズを繰り出すだけで笑いが取れたのは、「なんか怪しい存在」という理解が市民権を得ているからではないでしょうか。)

・効果の不透明さがあるにも関わらず、過度な広告が許されていること。
・過度な広告で、購入者から利益を得ようとすること。
・にもかかわらず、良い物としての社会認識を隠れ蓑にしていること。

→まとめて、【お金の香りがするから、なんか嫌】

2:個人の物事を、通例として語るから

二つ目は、個人の物事を通例として語るから。

例えば、とあるサラリーマンが不動産収入を増やし、それまでの月給を大幅に上回る収入をコンスタントに得て、最終的に資産家になったという流れのビジネス書があったとします。きっと、その書籍の途中には、投資すべき事や避けるべき事など各種ナレッジも含まれている事でしょう。

ここで、またまた言わせて欲しい。
その不動産、どこから湧いてきたんですか?

残念な事に、大体のビジネス書は、アッパークラスが成功して書いた物です。親から相続した不動産なんて、庶民の家にはヒョッコリ生えてきません。生えて雑草くらいです。

だからこそ、その一文を読んだ瞬間にスッと冷めてしまう。
スーツを脱ぎ捨て、心の中でヤンキー座りをします。

ボンボンが適当言ってんじゃねーよ。親と環境に感謝しな。

…もうこれは、ただのひがみかもしれませんが。
成功者のバックグラウンドや環境を加味せずに物事を通例化して語るのは、若干無理があります。

じゃ、本当に裸一貫から全部自力で頑張った著名人のビジネス書を読めばいいんじゃないの?

いや、本当その通りです。
庶民の希望の星ですから。読みたい気持ち、ありますとも。

だけどね、「これはボンボン社長が書きました」って帯に書くと思いますか?本屋の平積みレベルでは、判別不能です。……こうして、庶民は血の涙を流しながら、リッチな背景をフルに活かして成功したボンボンの自慢話を勝手に読み、勝手にイラつくわけです。

3:自慢話、倫理観死んでる(場合もある)

先程若干心の声が漏れてしまいましたが、三つ目はこのパターンです。「成功者として尊敬される」と「人間として尊敬される」がイコールではない場合。それでもその人物が推奨する方法を受け入れられるのか。

やっぱり、成功するためにはシビアに斬り捨てるシーンは出てきますから、「おいおい、令和ならそれはアウトだろ」「あなたは成功したけど…それは倫理的にどうなの」みたいな記述のあるビジネス書も存在します。

一言で言うと、「人間として尊敬できないヤツの話を、それでも手段と割り切って聞き続けられるか。」です。

ごめんなさい。完全に個人の力量ですが、自分は割り切って読み続けられませんでした。

実際、ビジネス書ではなく、学術論文を書く教授の中にも「人間として尊敬できないヤツ」は沢山いると思います。ただ、それらの文章は「論文として通るか」という観点でそれなりに「人間としての個性」が殺されて我々の前に提供されます。

…見えなければいいのか?というとそうではありませんが。
それでも、尊敬できないヤツに上から目線で語られても、全然心に響かないというか、物理的な読了は可能でも、余計な所が気になって集中できなくなってしまうのです。(これは、ひねくれた者の意見でしょうか。)

再びのヤンキー座り。おいおい、散々やっといて、いい子ちゃんぶってるんじゃないよ。高いスーツが泣いてるぜ。

皆さんはどうやってこの気持ちを制御していますでしょうか。反面教師として昇華するのかな。教えて下さい。


どうしたら、心穏やかに読めるのか

至った結論は、これです。

【エッセイ、もしくは伝記という付箋を心の中で貼って読む】

明確に伝記と書いてあれば、「それってあなたの意見だけど、伝記ってそういうもんだもんね〜」と納得もいきます。
お金の香りがしても、コイツはがめついヤツなんだな、と思えばそれまでです。

ビジネスマンが伝記を読まなければ社会人失格だ!と誰かに煽られたら?「なるほど、コイツは伝記マニアなんだな」と心の中で失笑して下さい。学び方や知識の仕入れ方は、本来自由なものなんですから。

煽るような帯は外して、カバーの下にしまっておけばいい。別に、その著者が偉いわけでも、ビジネス書を読む事が高尚な行為というわけでもないのだと、フラットな気持ちになってから読み始めるのをおすすめします。

ビジネス書の神聖化、やめませんか?
一冊の本として、向き合う自由を読書家に下さい。

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