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映画の「祈り」について(はじめに)

今年に入って、映画学に触れるようになった。クィア映画が好きなのでクィア映画が専門の同志社大の菅野先生とか金沢大の久保先生の書籍とかコラムとかを読み始めた。そうしているうちに、「あ、映画ってこうやって注目すると見たことを言語化できるのか」と腑に落ちた。これまで映画を見終わってなんか印象に残ったシーンやセリフや撮影の仕方とかキャスティングとかいろいろ感じるんだけど、『なんかすげえ!』レベルの非常に漠然と抽象的な感覚で落ち着いていた。けど、演技だけじゃなくて、演出や撮影の仕方、音や光の使い方の意味付けに着目して、説明できるようになった。10年以上映画館に通っていたおかげなのかもしれない。
 で、いろいろと映画を見るなかで、自分が注目したいことが最近わかるようになった。映画学を専攻に学んでいない者として、とりあえずアーカイブのように、見た映画についてnoteに残し、自分の興味関心を探索したいと思う。

「祈り」「祈ること」について

現在、映画に関心を寄せているのが「祈り」「祈ること」である。理由は自分がよく「お祈りする」から。自分がするお祈りといっても、程度は様々で、仏壇の前や寺で般若心経を唱えたり、写経したり、神社で祈祷を受けたりすること以外にも、単に心の中で祈ったりすることなどで。祈ることについても、自分や他者が抱える困難や病等の解決、将来の希望や願望の成就や、家内安全や旅行安全、健康祈願に恋愛成就とかさまざまである。こう書いてみるととても欲深い人間である。
 また、自分は一つ悪いことが起きるとそれを考えてなかなか心が晴れず、いつまでも引きずる癖がある。自力で気持ちの切り替えを上手にできない。そういうとき、最終手段が「祈り」である。「○○さんを傷つけてしまったことを反省しています。許してもらえますように」とか「仕事のやらかしが大事にならずに早く解決しますように」とか、もはやそれ祈ったところでなんもならへんやろ、というようなことを祈る。祈った後は、「よしちゃんと祈願したし、なんとかなるやろ!」ととりあえずいったん区切りを入れたことにしている。
 祈る場所はたいてい大阪市中央区難波にある「水掛不動尊 法善寺」だ。なんば千日前の日本人も外国人観光客もごった返す喧騒に突然ひっそりと静かに現れるお寺である。参拝時に水ガメからひしゃくでお不動さんに水をかけて願掛けするのですっかり苔がムシムシで、あと2匹猫が住み着いてて出会えるとちょっとうれしい、あの法善寺である。浄土宗なので、自分の信仰する宗派とは違うが、まあそこは気にせず参る。お不動さんはなんでも願いを聞いてくれる。なんでそこで祈るかというと、水を掛けるという一つの儀式を通して心を整えながら祈ることができるし、戎橋商店街と千日前商店街を横で結ぶ静かな法善寺横丁の石畳の雰囲気が好きで、アクセスもよくてふらっと立ち寄りやすいからだ。TOHOシネマズなんばとなんばパークスシネマから近いため、映画を見る前後でよくふらっと立ち寄っては参拝して水をかけて祈って願掛けしている。


さて、「祈り」や「祈ること」は誰のためにあるのか。「祈る」という行為をネット辞書で調べると以下である。

神や仏に請い願う。神仏祈願する。「家内安全を—・る」「—・るようなまなざし」

心から望む。願う。「成功を—・る」「無事を—・る」

デジタル大辞泉(小学館)

したがって、祈りは自分だけでなく、他者のためにもある。それは信仰や宗教の濃度が強いときもあれば、そうでないときもある。そして、祈りそのものが自分や他者へのケアになると考えている。しかし、当然祈りや願いが叶うときもあればそうでないときもある。

映画の中で、「祈り」がどのような描かれ方をするのか。そして、それがその作品のなかでどう作用しているのか。これから映画を見る視点のひとつとして、自分のためにメモ的に記録していこうと思う。


(つづく)


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