ヒュッゲという過ごし方
金曜日はとてもよく働いた。ベテランの上司が2人も不在で、在籍2年目の私に旗振り役が回ってきた。
こんな日に限ってハプニングが相次いだが、歴の浅い7人のチームにしてはよくぞ乗り切ったと思う。
本当にうちの職場の人達は気が利いてまめに働く。私もリーダー然として複雑な案件を引き受け、他部署からの相談にもにこやかに応じた。
今日の私はとても偉かったと自画自賛して、そして残業終わりにひとりで街に飲みに行くことにした。
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先月恋人と訪れたバーがとても印象的だったので迷わずそこを選んだ。いつかまた来たいと思っていたのだ。そのお店は雑居ビルの一角にひっそりと佇んでいる。重厚感のあるドアをゆっくりと開ける。おひとり様には慣れっこの私もこの瞬間だけはドキドキする。
金曜日の23時過ぎ。さほど広くない店内のテーブル席に2組のお客さんがいた。カウンター席を案内されてメニューボードを見やる。【フレッシュフルーツカクテル】と書かれた手書きのボードにはマンゴー、メロン、ブラックチェリー、フルーツトマト、パッションフルーツ、ピスタチオ、パインと魅力的なラインナップが掲げられている。少し悩んで桃のカクテルをお願いします、と伝えた。
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前回は見かけなかった店員さんがいた。金髪のショートヘアに白い肌、知的で物静かそうな雰囲気。どこの国の方だろう。
オーダーしたカクテルが出てくるのを待っていると、彼女の方から「何軒か回ってきたのですか?」と流暢な日本語で話しかけてくれた。さっき街に出てきたばかりです、今夜は仕事のご褒美に美味しいお酒を飲みたい気分で、と打ち明ける。
彼女の隣でお酒を作っているマスターが「仕事を頑張った日のアルコールはいつも以上に美味しいですからね」と微笑む。
思い切って「どちらの国のご出身ですか?」と尋ねてみると、後ろの壁飾りを指さして「ノルウェーです」と教えてくれた。壁飾りはノルウェーの国のシルエット。木目調の内装やお洒落なソファのラグなんかも彼女の趣味らしい。そうして話すうちに彼女はマスターの奥様だということが分かった。
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ノルウェーと言えば思い出したことがあったので聞いてみた。「最近読んだ本でヒュッゲという言葉を見かけてすごく気に入ったんです。ヒュッゲは北欧の文化ですよね。どんな暮らし方ですか?」
彼女が教えてくれた。「ヒュッゲは主にデンマークの文化です。私たちノルウェー人にもそういう文化はあります」「大体7時間くらい働いて、家に帰ったらお酒と美味しい食べ物をソファに持ち寄ってテレビ番組や映画を楽しみます」「ともかくその時間をじっくり楽しむのです」
私が読んだ小説に「ヒュッゲ」は心地よいを意味すると書いてあった。北欧の生活を想像してみる。お互いに好きなものを持ち寄った家族団らんのひと時。ヒュッゲが幸福度の高いデンマークから生まれた言葉というのも大いに頷ける。
今、バーのカウンターでゆっくりお酒を飲んでいるこの時間も恐らくヒュッゲ。そうか、と気付いて何となく手にしていたスマートフォンを鞄にしまった。改めてずらりと陳列されたボトルを眺めてみる。マスターが次々とお酒を作り出す手さばきに感心しつつ、サーブされたカクテルをひとくち飲む。
今、ここにある自分。
それを噛み締めると、さっきよりも幸せが全身に拡がっていった。
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私の好きなマインドフルネスにも似た概念だと思いながらお酒をいただいていたら、彼女が「日本のお花見もヒュッゲだと思います」と話し掛けてくれた。洗い物やテーブルの片付けをしながらヒュッゲの分かりやすい説明を考えてくれていたらしい。
「食べ物とお酒を準備して、その時間を楽しむために出かけて行くのはヒュッゲです」
その言葉を聞いて自省する。日本人はどれだけお花見の時間空間に集中できているだろう。スマホ片手に見栄えのいい写真を撮っている場合じゃないような気がしてきた。
彼女は続けて言う。「日本に来てからは忙しすぎて、なかなかヒュッゲの時間を取れません」。隣で耳を傾けていたオーナーが苦笑している。
「本当は家に図書室を作って、シガレットとお酒を楽しみたいんです」「アパートメントは借りてきた場所という感覚で、自分の居場所ではない感じがします」「だから家を買って図書室が欲しいです、難しいですけどね」
【借りてきた場所】という言葉が腑に落ちた。私がひとり暮らしを始めた頃はとにかく片付けが苦手だった。当時は姉のお下がりの家具ばかりで(それはそれで有難いことだったのだけど)、自分で選んで作り上げた空間ではなかった。家具を少しずつ自分の好きなものに変えていくうち、片付けは得意なことに変わった。
自分で選んだ好きなものに囲まれる暮らしをしたいですよね。一角でもそういう空間があると違いますからね。そう、だから図書室なんです。今のアパートは彼と私の漫画がたくさんあって片付かなくて。ふふ、漫画はついつい増えちゃうから仕方ないですね。
そうした会話をする背後でジュークボックスのサウンドが流れている。他のお客さんが選曲したらしき竹内まりやさんのプラスティック・ラブが夜に溶けていった。
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日々の暮らしの中にヒュッゲのヒントは隠れている。
エアコンの効いたリビングで雨音を聴きながらソファに寝転ぶ時間。お風呂上がりに氷をカラカラと鳴らしながら飲むカルピス。一日の終わりにアロマを焚きながら読書するひと時。
「ゆったりしてるな、この時間は好きだな」の思考を混ぜた途端に、幸せがもこもこと膨らんでいく。
今夜は恋人と会うのでお酒を片手にゆっくりした時間を過ごす予定。彼に会うのは10日ぶりくらい。さっき「白ワインを買っといて」と連絡が来たので、何か美味しいものを持ってきてくれるようだ。
ヒュッゲな時間を共有できる人を、私はパートナーに選んだ。
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