何度でも会いに行く
雨続きの冬のような春、久しぶりにからりと晴れた日のこと。
息子と娘を連れて、母に案内してもらい、リハビリ施設に入居している92歳の祖母に会いに行った。
前回は会ったのは足腰を悪くして入院した病室だった。照明や日差しの関係もあるだろうが、顔がとても暗く、声に張りがなく、病室を出た後なんだか私の方がとても落ち込んでしまったのだ。だが今回会った祖母は顔色もよく、声も穏やか、笑顔から気力のようなものも伝わった。短い面会時間だったが、その姿を見ることができて心から安心した。
ひ孫にあたる息子や娘の名前は何度教えても間違えてしまうし、耳が遠く大声を出さなければいけないが、しっかりと会話はできるし私の存在もちゃんと認識してくれている。
私は昔からおばあちゃんっ子だった。優しい祖母が大好きで、祖母が住む狭く古い家も大好きだった。
電車で行くと2駅の距離の祖母の家には、小さい頃からよく遊びに行った。春休みなどの長期休みには一人で泊まりに行くのが恒例で、最寄駅の改札を出ると祖母がいつも笑顔で待ってくれていた。
日中は一緒に植木に水をやったり、祖母の家事をする様子をついて回って見たり、商店街に買い物に出掛けたりして過ごした。夜は家でお好み焼きを焼いて食べたり、少し歩いて馴染みのうどん屋さんに食べに行くことも多かった。
当時、祖母の家には浴室がなく、銭湯に行くのも大きな楽しみだった。赤と青のポンプを調整しながらいい温度の掛け湯の作り方、大きなお風呂には足先からゆっくり入り肩まで浸かること、浴場から出る際は手ぬぐいでさっと体を拭くこと、お風呂上がりの瓶で飲む冷たい牛乳の美味しさ、銭湯でのイロハは全て祖母に教えてもらった。
寝苦しい夏の夜には氷枕を用意してくれて、それがとてもとても気持ちがよく、狭い部屋に祖母とぎゅうぎゅうになりながらもすやすやと眠れたこともよく覚えている。
戦争時代を生きた祖母はとても倹約家だったが、私たち孫にお金を使うことを惜しまなかった。メモはもちろんチラシの裏を再利用し、雑巾ですら何度も縫い直して使い、家にある家電のほとんどが昭和レトロで博物館に展示されているような代物ばかりだったが、私たちには毎月のお小遣いを新札で用意し、遊びに行った時は必ず青果店で買った旬の果物を用意してくれていた。
祖父はわたしが3歳の時に病気で亡くなった。私にはほとんど祖父の記憶はない。そんな祖父のことを祖母は本当に愛していて、どこかへお出かけする時は必ず、鞄に祖父の写真を忍ばせてくるし、「あっちに行ったとき、お父ちゃんにまた話すことが増えたわ」といつでも祖父を思い出してるようだった。
「生まれ変わってもまたお父ちゃんと結婚したい」と何度も聞くその言葉と表情はいつもとても可愛いのだ。
老後という第二の人生に祖父の存在がなく、30年以上も一人で祖母は寂しかっただろうなと思う。
と思うのだが、元気に動いていた頃はよく町会の旅行とかであちこちに出かけていたし、カラオケクラブや太極拳など、積極的外に出ていた。一緒に商店街を歩けば、誰かしらに声をかけられてよく立ち話をしていたし、祖母は祖母の老後をちゃんと楽しんでいた。そんな、毎日を丁寧に暮らし楽しんでいた祖母だからこそ、私は大好きなのだ。
不謹慎かもしれないが、いつ "その時" が来ても受け入れる覚悟はしているつもりだ。だから今はなるべく、会いに行ける時に行くようにして、後悔を最小限にしておく。そして祖母との思い出を少しでも忘れず取っておくために、いろんなことを思い出しておこうと思う。
何度でも、大声で息子と娘の名前を教えに、私はまた大好きなおばあちゃんに会いに行く。