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決めることへの恐怖

こんばんは。
ご無沙汰投稿になってしまいました!
(毎日やるんやなかったんかい)
この記事がアンサー記事のように、平松きょんぴ社長の今日の投稿に喝を入れられております。
https://note.com/kyoheyyyy/n/n8f011f385c50
うん、間違いない。

ということで今日は、決めることへの恐怖というお話をしようと思います。

皆さんは決めたことを淡々とやれますか?
やれる人とやれない人にまず分かれると思います。
やれる人は努力してやれます。「自分が決めたから」「やった先の未来を楽しみにしてるから」いろいろあるでしょう。
やれない人は簡単に諦めます。「今日は時間がなかった。」「優先順位が上がらない。」いろいろあるでしょう。

正直、私はそれを毎日やろうがやらまいが個人の自由だと思っています。
(ただ、それで給料をもらってる場合は除く)
お正月に抱負を立てて、3日坊主でやらなくなっても別に困る人はいないですもんね。
困るのは自分です。

じゃあなぜやる人とやらない人の差が生まれるのか?
私の考えは、自分を信じているかいないかの違いだと思いました。

自分を信じているから決められる、そして遂行できる。
自分を信じていないから決められない、決めても続かない。


先週実は屋久島に行っていました。
屋久島のことはまた追々書きたいと思いますが、その中の気づきの一つに私の思考の問題があります。

私は、いろいろ気づきすぎてしまう性格をしています。おそらく学生時代の友人問題が原因でしょう。ここから被害者意識が醸成されました。気付いて動くことで叩かれる、変な目で見られているような気持ちになり、自分の考えに蓋をする機会が多くなりました。「私はこう思っているけど、皆んながそうなら私もそうしよう。」「やりたくないけど、誰もやる人がいないなら、誰か困るだろうしやろう」自分の意思を否定して蓋をして生きてきました。そうすることで周りと潤滑に関係性を保てたので。
でもこれは、所謂「協調性」ではないことに気付いたのです。協調性とは、【自分と異なる意見や考えを持つ人たちと協力しながら、同じ目標の達成に向けて行動できること。】
異なる意見を持っていることをいったんは主張する、自分の意見を大事にして言葉に出すことが必要でした。そして、そのあとに全体の意見を調整すれば良いのです。
私はこれをずーーーーーーっと怠ってきました。自分を無視し続けていました。否定して蓋をして生きてきてしまいました。

きっとこれが、私が淡々とやれない原因だと思います。
物事には絶対にできない原因があります。そこを解決しないと後回しにしても絶対にまたやってくる。

じゃあ淡々とやれるようになるには?決めることができるようになるには?
それは一つずつ一つずつ自分の考えや意見を認めること。そしてそれを伝えること、出すこと。これを私はこれからやって行くと決めました。(ここはもう決めるしかない)34年間染み付いた思考の癖だけど私は治せる。だって、気付いたから。

私を大切にできるのは、私しかいない。

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