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自分として生き始めるとなにものでもない時期がくる

本当の自分のままで生きるときめる、もうそうとしか生きられないんだなと諦める、肚をくくると、なにものでもない自分で過ごす時期が訪れるように思います。

本当の自分で生きる、というのは、本当の自分じゃないものがわかるようになった人が言う言葉で、この段階で、本当の自分てこれ!って明確にすみずみまで自分をわかっているわけではなく。

わかっているつもりのことはあるけれど、十中八九それはあとで浅かったなあ~ってなる。

本当の自分はこれだ!って100%わかることはひょっとして一生ないのかもしれないと最近は思うけれど、それでも0%だったところから50%でも分かればずいぶん大きい変化だと思う。

で、0から50%以上に行くまでの間は、自分じゃないものはやめるけれど、自分であるものが分からないから、自分でもなければ他のものでもない、なにものでもない時期が存在するわけ。

この期間にぶちあたっている人は、仕事をやめて次の仕事を始めるまでの時間だったり、精神的にしんどくなって社会的活動をやめてじっとしていたり、外側の行動としては止まっているように見える。

この時期はなにも生み出していない、稼いでいない、影響力を与えてない、付き合う人が減る、なんかがおきて、大いなる決意で一歩を踏み出したのに、どんどん自分が、自分の人生が、しょぼいことになっていくみじめさなんかも感じちゃったりする。

でも考えてみたら、自分じゃない人生を生きてきた時間が長ければ長いほど、その勢いは大きいわけで、惰性でそっちにしばらくは動いてしまう。

重い車でスピード出したら、ブレーキ踏んでもそのまま進んでいくのと同じ。車はすぐには止まれない。

やっと止まって、再度エンジンかけてもとの速度に戻るまでも、やっぱり時間がかかる。

このなにものでもない無風のような時間ていうのは、そういう時間なんじゃないかなって思う。

でその止まっているようななにものでもない時間に考えたこととか悩んだことって、自分でない生き方と自分としての生き方のちょうど間だから、そのときでないとわからない真ん中の感覚にある。なににも偏っていない。そのときに書いた文章とか考えたことは、のちのちの自分の指針のベースになったり、他の悩める人の救いになったりする。

予定調和をぶちこわし、世間の通念に逆らい、大人の常識から外れ、突拍子もなく生きている人たちを見ると、こういう時期をほぼほぼみんな通っているように思う。少なくとも、私が好きな突拍子のない人たちはみんなそう。

その時期を大切に生きてきた人は、自分に優しく他人にやさしい。人間の本質を信じ、愛しているように見える。

人によっては、本質ではないものを押し付ける存在にぶちあたり、ある人は戦う戦士、ある人は傷ついた人を癒すヒーラーだったりする。

なにものでもない時期は、いつ終わるかもわからないし、どう終わるかもわからない。永遠に引きこもって人生終わるような気すらしてくる。無価値感、分離感で苦しいしつらい。

でも動き出した時には、その無価値感や分離感の原因となっているこれまで自分を縛っていた世界の常識、基準が叩き壊されて、意味がなくなっているはず。とてつもない大きな岩で動かせないから先には絶対にすすめないと思っていたけれど、目がさめたら自分がガリバーになっていて、ちょいっとつま先でけれるぐらいの岩になってるような感じだ。

なにものでもない時間を与えられた人は選ばれて、それを今のタイミングで与えられてるんだと思う。どっちにもハンドルを切れる。スピードも選びなおせる。なんなら、今まで乗っていた車を捨てて、別の車に替えることもできる。

そんな特別な時間なんだと、なにものでもない時期をまもなく抜けそうだなと感じている今の私は、そう思っている。


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