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運気の流れを止めているもの

運気の流れを止めている意識、思考癖というのは自分では気づきにくいものです。それに気づき手放すためにいろいろな出来事が起きているとも言えます。

こういうのをアカシックレコードに聞くと便利です。

「私の流れを止めているものは何ですか?それを取り除くためになにをすればいいですか?」

こうした質問を投げ、その時にもらったキーワードは「聖書」と「弟子の足を洗うキリスト」でした。

聖書にはキリストが弟子たちの足を自ら洗う場面があります。このキリストの行為の解釈は著者のヨハネや教会として確立されたものがあるのでしょうが、わたしは信者ではないし、正しさより私がどう受け取ったかだけが重要なので、そこはスルーします。

わたしはこのエピソードから、対等性、固定された概念の解除、全体の循環、を受け取りました。神が上で人が下ではない。弟子の足を師があらってもいい。自分の立場に意味をもたせない。すべての個と個の関係は全体であり、個の視点は全体の視点に包括され、またその逆でもある。

さて、一通りの対話をして、レコードを閉じて、スマホを開いたら「滞っていると感じたら神様が喜ぶことをするといい。つまり人が喜ぶことをするといい」という趣旨の斎藤一人さんのメッセージが目に飛び込んできました。

ああ、これがレコードが今回のセッションで私に送ってきたことのまとめなんだな、と悟りました。

このメッセージを見た時、我をはらない、ということだなとピンときたからです。

わたしは道を歩いていて、向こうから来る人とかちあいそうなとき、葛藤があります。

普通はお互いが目に入った時点でなんとなくどちらが右いくか左いくかを調整してすれちがいますよね。

でも結構な頻度でそれをしない人に遭遇します。
・スマホのながら歩きで前をみておらず、相手が避けるのが当然と思っている。
・ぜったいに道を譲るまいというオーラで来る

だいたいこの2パターン。

こういう人たちにとてもイライラするのです。そして、私は事前に調整もしているし、そもそも前後の流れもこっちが沿っているのに、身勝手に歩いてくるそっちが悪い!という思いが強烈に立ち上がります。

こうなると、こっちこそ避けてやるもんか、という変な決意をもってお互い嫌な気持ちでかちあい、すれ違うということがおこってしまう。

相手が譲ってもけっきょくその勝利はちっとも嬉しくないし、自分が譲ってもなんだか自分の存在を軽く見られたようで気分がわるい。

この葛藤が我という言葉と結びつきました、この我こそ私の流れを止め、心を固くして他の選択肢を失わせている原因だと思い至りました。

私の方がまっすぐ突き進む権利がある、私が正しい、そっちが避けろ。こういうあり方よりも、まっすぐもいけるし避けることもできますよ。私の方が対応しますよ。余裕があるのでね。こうしてすれ違えればストレスもないしスムースで気持ちも揺れませんね~、というモードの方が柔らかくてオープン。

わたしのこころのかたくなさ、それがあの行為に現れ、固い石となって流れを止めていた。

けっきょく、昨日書いた「私の」をやめるというのと同じ。私のあるく方向を邪魔された、というより、わたしたちのすれ違いをスムースに。とすれば問題は私の個人的な嫌な出来事ではなくなります。

我をすてるというのは、なんでも「私の」問題ととらえることをやめるということと結びつきました。そうやって人と接すれば犠牲を感じながら人にやさしくするのではなく、譲ったり譲られたりが自然にでき、神様もよろこぶ。

もっと柔らかく。もっと穏やかに。もっと軽く。波動も変わったのを感じます。


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