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10年来の目標の年。

東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まってから、日本中の多くのことが、2020年をひとつの区切り、目標として、動き始めたように思う。
でも、私にとってのそれは、間違いなく2018年だった。

2008月5月2日、乳がんを告知された。
手術で右胸を失い、抗がん剤で髪を失い、免疫力が下がって高熱を出し、放射線治療で肌はただれ、分子標的薬でお金がどんどん消えていき、ホルモン治療で生理が止まって体温の調節ができなくなった。
死というものがすごく身近に迫ってくるのを感じたし、人生には、どんなに努力しても、悲しんでも、悔しんでも、怒っても、地団駄を踏んでも、どうしても変えられない現実があるということを痛感して、泣けた。

でも、あの時最も辛かったのは、片胸を失ったことでも治療の副作用でもなく、当たり前にくると思っていた未来が全く思い描けなくなったことだった。

「あとどのくらい生きられますか?」という問いに「まずは2年頑張りましょう」と言われた衝撃はとても大きかったし、その関門にたどり着いたら安心できるのかと思いきや、「乳がんはゆっくり再発、転移してくることもあるので治ったとみなせるまでに10年かかる。その間は定期的に経過観察を続ける必要があり、あなたの場合は、ホルモン治療を最低5年、できれば10年した方がいい」と聞いたときの衝撃は、もっと大きかったかもしれない。

2年、5年、10年…。

自分の命をそうやって区切られて語られるのは初めてだったし、24歳の私にとって、34歳なんて想像もできないほど果てしなく遠く感じて、途方にくれた。

途方にくれながら、「2018年」というのが、私にとっての大きな目標となった。
その時までどうにかして無事に生きられますようにと毎日祈りながら眠りにつき、もしそこまでたどり着くことができたら、がんから自由になり、無敵になれるような気さえしていた。

そうしてあの日生きたいと願ってやまなかった日々を一日一日重ねながら、検診をクリアする度に胸を撫で下ろし、毎年5月2日を第二のお誕生日のような気分で過ごし、みんなが歳をとるのを嫌がる年齢になっても歳をとれる喜びを噛み締め、新しい年を迎える度に感動した。

とりわけ、入籍したばかりの彼の実家で2018年を迎えたときは、その感動もひとしおだった。
(みんなで紅白を見て新年を迎えたあと、義母に是非にと勧めていただいたマッサージチェアで爆睡してしまったのだけれど…)

そして、ずっと目指してきた10年の節目の日、2018年5月2日まであと3ヶ月あまりのところまできた今、私はあることに気づいた。

その日を迎えても、私はきっと何も変わらず、もちろん無敵になれることもないだろうということ。

10年は目安に過ぎず10年経った後にも再発転移することだってあるし(そもそも医療技術が進歩する中で再発転移しても終わりではなく自分らしく生きられることをたくさんの仲間に教えてもらっている)、がん以外にも人生どんな困難が待ち受けているかわからないし、怖いものだってたくさんある。

でも、それでいいんだと思っている。
命は限りあり、人生は一度しかなく、自分の力ではどうにもできないこともあるけれど、全ての経験と出会いが奇跡的に掛け合わさって今があり、だからこそこの世界に生きていることはそれだけで尊くて、愛しくて、ありがたい。

そんな風に思う一方で、その日にたどり着いた時には、山の頂上からしか見えないような新しい景色がもしかしたら見えるかもしれないという淡い期待も、実は抱いている(写真は2015年、人生二度目の富士山頂にて)。
せっかくだからそこから先はこれまでより大胆な人生を生きてみようかなとソワソワしている自分もいたりする。

ちなみにその日の朝、私は初めての両家の家族旅行でハワイに経つ予定。
「ゴールデンウィーク真っ只中で高い!」と言いながら、あの時から目標としていた日の航空券を予約するだけで、めっちゃ幸せを感じた。

可能性は無限大。
だからやっぱり、生きているって面白くて、楽しい。

#がん

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