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読書記録⑨『ライアの祈り』森沢明夫著

次に読む本は、森沢明夫さんの本にしようと決めていた。この前なんとなく視聴していたYouTubeにゲストとして森沢明夫さんが登場し、彼の生き方や小説にまつわる話を楽しそうに語っていたから。
森沢さんは「小説のネタに困ることは一生ない」と言い切っていた。それは「生きている以上、どんな人でも絶対にものすごく辛い経験をしているはずだから」だという。


いい物語というものは、主人公が必ずといっていいほど、なんらかの困難にぶち当たる。そしてそれを乗り越えて成長していく。平坦な道だけじゃなく、山や谷があるから面白い。だからその辛かった体験談やその人の人となり、バックグラウンドを知れば一本の小説が書けてしまうという。
また森沢作品は、いつもハッピーエンドを迎えるが、そこには法則がある。決して主人公が力技で障害を取っ払っていくわけではない。周りの人間との関係性を丁寧に紐解き、誠実に接していく。それが結果的にみんなから助けられ、望む以上の場所を手にする大きな流れを生み出しているのだ。


今回読んだ『ライアの祈り』も、もれなく主人公たちの成長物語であり、周囲の人たちとの関係性や生き方を互いに尊重し、大切にしていることが伝わってくる物語でもあった。
この本では現代に生きる“大森桃子”と、縄文時代を生きる“ライア”というヒロインを交互に描写している。おそらくライアは桃子の過去生だ。はっきりと前世が見えることはないものの、桃子は夢で縄文の世界を体感し、現実世界で触れる縄文時代の物に懐かしさを覚える。


あらすじをざっと書くと‥‥

青森県の八戸はちのへ市で、眼鏡屋の店長を務める36歳の桃子はバツイチ独身。ある日二十代の集う合コンで、一人40歳の男性、通称“クマゴロウ”と出会う。あだ名の通り、彼は背が高く熊のような容貌をしている。彼の仕事は発掘調査で縄文遺跡を専門としていた。桃子とクマゴロウは徐々に仲を深めていき、付き合うようになる。クマゴロウの地元でもある八戸市内や周辺を頻繁に観光し、彼の職場である発掘現場にも二人で足を運ぶようになる。しかし桃子には以前の結婚生活で傷ついた、触れられたくない隠し事があって‥‥

という感じだ。


一方、ライアが生きる縄文の舞台はというと‥‥

神の加護や精霊を信仰し、自然の恵みと共に集落の人々と協力して生きる時代。自分のことを「ボク」と言い、狩りに繰り出す男まさりな少女、ライア。ライアは巨大な猪との戦いで、片足の甲から先を失ってしまう。走れなくなったことで、集落の他のみんなのお荷物になってしまったと思い、落ち込む日々を送る。しかし幼少期から家族同然で育った兄のような存在、マウルや、父のような族長の後押しでライアは集落の“シャーマン”を務めることに。シャーマンになるということは全身に刺青を入れ、他者のために祈りを捧げる生涯を送ることを意味する。親友サラにも助けられ、ライアは日々村のために祈り、感謝される日常を手に入れた。が、ある時大切な存在であるサラが、遠い北の聖地に向かわされることになり‥‥

と、生活様式は違うものの、思いや悩みの根本は現代と変わらないことが伝わる話の筋になっている。


一見全く違う物語だが、後半になるにつれ、縄文と現代のヒロインや大切な人たちがどんどんリンクしていく。実際のところはわからないが、この本を読んでいると輪廻転生が本当にある気がしてくる。
もちろん同じ運命を辿るということはなく、その名前とその身体で生きる人生は一度きりだ。記憶だって普通は、物心ついた頃からしかない。だからこそ目の前で起こることに、毎回ヤキモキしたり感動したりヒヤッとしたりする。それがたとえ本人の望んでいない負の事象だったとしても、人が人と関わり、たくさんの感情を味わい、深く考えることは、成長していく過程では不要な出来事ではなかったはずだ。


私はライア視点の縄文時代の物語が、特に好きだった。現代よりもずっと自然との距離が近いこの世界は、厳しさも優しさも内包している。
狩りは命懸けだし、怪我や病気もヘタをすると命取りになる。森には危険な野生動物が生息し、天候にも気をつけないと災害だって起こりかねない。集落の、古くから伝わるおきてもある。
しかし集落の人たちは、全員が家族であるかのように団結し助け合って暮らしている。大怪我を負ったライアにしてみても、みんなから内心で足手纏いで厄介だと思われるような心配はしていない。むしろ優しくされるのが辛いのだ。それはライア自身がみんなの負担になりたくないからで、みんなの愛情を疑ってはいない。そして森羅万象、目に見えない大いなるつながりも意識し、利他の精神で感謝を忘れずに生きている。


この本の中では“他者の幸せを願うこと”が繰り返し説かれている。現代ではクマゴロウが“自分の幸せも、大切な人が幸せでいてくれるからこそ”とし、縄文時代では集落の長老がライアに向けて“シャーマンの力は、他者のために惜しみなく使い続けなさい”と教えている。
シャーマンは祈りで他者を救うことはできても、自身を救うことはできない。だから自分に何かあった時は、他のシャーマンか、霊力の弱い人たちに祈ってもらうしかないという。しかも後者の場合は大勢の力を必要とする。
このエピソードを読んだ時「情けは人の為ならず」という言葉が浮かんだ。誰が偉いとか強いとか、そんなことは関係がない。みんなそれぞれの役割を淡々とこなし、各々の持ち場で人の助けになっている。持ちつ持たれつの関係性なのだ。


個の時代と言われ、人とのつながりが希薄になっていると危惧されている現代。人はスマホ画面をじっと見続け、目の前の人を見なくなってきた。でも結局は、ネットの世界で他者と繋がることを求めている。一人では生きていけない。生きていく意味も、生きていく中で自分を知ることも、味わう感情も、何もかも自分以外の存在が教えてくれる。
たとえ一人の時間が好きだったとしても、その静けさや寂しさの中の安心感に気づかせてくれたのは、人と過ごした時間だ。この世界は間違いなく、多種多様な人たちが存在して、出会い、関わっていくから面白い。全ての人と仲良くする必要なんてなく、苦手な人、特別な人、愛おしい人がいて当たり前だ。だからこそ、一人一人に自分だけの物語があるのだから。


印象に残ったセリフがある。縄文時代の一場面で言われた言葉だ。大分ネタバレになってしまうので、(バレバレかもしれないけれど)誰が誰に言ったかは書かない。

「死んだあとも、ずっと一緒だぜ」
「生まれ変わってもな」

わかってる。すごくベタな言葉だ。
こんな言葉を現代の男性に言わせたら、そのシチュエーションや相手のテンションによってはドン引きされかねない。けれど、このどストレートな言葉が、全く嫌味なく似合ってしまう人物とシーンだったのだ。大事なのは上手い言い回しなんかじゃない。そこに込められた想いだ。そしてそれを小説上で表現してしまう著者はやはり凄い。読者をもキュンとさせてしまうには、その言葉に至るまでの登場人物たちの心情や仕草、行動の一つ一つに気を配る必要があるはずだから。


少し縄文時代贔屓になってしまったが、現代のヒロイン大森桃子も、なかなか好感の持てる人物だ。明るくておちゃらけ者で、後輩の面倒見もいい。周囲の人間や家族にも愛されている。
実はこの大森桃子は『ライアの祈り』以外の作品にも脇役として森沢作品に登場しているらしい。私はそのことに作中で“カーリング”というワードが出てきたことで気づいた。タイトルは『青森ドロップキッカーズ』。読んだことはない。ただカーリングという競技が珍しく、変わった題材だなぁと、本の表紙を見て思った記憶があった。そして『津軽百年食堂』。これは桃子の実家の食堂が舞台になっている話だろう。今回の『ライアの祈り』でも桃子がひょこっと実家に帰るエピソードがあるため、先に読んでいれば懐かしい知り合いに再会したような気持ちになれたかもしれない。


そんなわけで、私は“青森三部作”と呼ばれる最終作から読んでしまったことになる。ちょっと惜しいことをした。でもどの作品も独立していて、どれから読んでも楽しめるとのお墨付きだ。実際、充分楽しめた。
この本からは“青森愛”も感じられた。実際の観光名所が登場し、その描写も五感を刺激してくるから、ググりたくなってくる。検索してその場所の画像を見たら、いつか本当に行ってみたいとも思えた。
さらに、縄文に関する知識がわかりやすくギュギュッと詰まってもいる。小難しい学術書や専門書などは読む気になれないけれど、クマゴロウが嬉々として語る縄文人たちの暮らしぶりなどは読んでいて抵抗がない。ライアたちの日常、信仰にまつわることも、すっと受け入れることができる。


そしてもちろん、読後感は良かった。森沢作品は過去にも何作か読んだことがあるが、著者の人柄なのか、いつも読んだ後は心が温まる。穏やかな気持ちになりたい人は、ぜひ読んでみてほしい。

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