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たびする哲学 | 努力

数ヶ月に一度は旅行に行く女友達がいる。彼女とは、仕事の話や、人間関係の話、はまっていこと、悩んでいること、楽しかったこと、などなど、会うと何時間でも話が尽きない。特にテーマを決めて会話をしているわけではないけれど、気づいたら、この旅行のテーマは○○だったなぁとなる。以前、伊東・箱根に2泊したときのテーマは、努力だったなぁと思う。


努力の定義

友達と話す中で、努力ってなんだ?となったので、まずは定義をしてみた。成果の実現を目指すこと。努力した後には何かしら成長するために行う行為を努力と今回は定義した。ちなみに、辞書にはこう書いてあった。

目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。

広辞苑

努力とは

努力できる人の苦悩

友達は明らかに努力ができる側の人間。あるべき姿に向かって猛然と走り続ける人間。そんな彼女は”理想とする自分”から今の自分がズレるのがつらい。そうして自分をストイックに追い込みまくっている人。

理想とする自分に近づこうとするのが普通だから、努力ができない人との付き合いが嫌になったりするらしい。だから、パートナーにも同じレベルで努力してほしい。けれど、同じレベルで努力してくれる人なんていないんじゃないか。

”努力できる”なんて、まっしぐらで悩みがなさそうで素晴らしいことだと思っていた。けれど、努力できる人だって悩みはあるんだなぁ。

努力できない人の苦悩

それに対して、私もそうだが世のほとんどの人は努力できない人間だと思っている。努力はつらいものと思っているので、努力はできるだけ避けたい(きっとみんなそうだよね?)。

本気じゃないんじゃないかと、できる側の人間は言う。そんなことはないと、できない側から言わせてもらおう。できない側の人間も本気で目標の実現を願っている。だから、少しだけ努力することがある。でも、その努力を継続できない。目先の誘惑に引っ張られるから。それは、本気じゃないからではない。どんなに本気でも、二重思考というか、今この瞬間の幸せも享受したいという気持ちに引っ張られてしまうから。

努力に対する勘違い

「私は努力できないんだよ」と言うと、友達は「そんなことはない。あなたは努力のできる人だ。努力を努力と思わずに日々コツコツと継続して当たり前に努力できる人だ」と言う。

私は、努力とは、心身が擦り切れるまで、全力でやりきることだと思っていた。なので、心身が擦り切れるまでやりきることなど、あまりない自分は努力のできない人間だと思い込んでいた。

努力=全力という誤解

あまり、骨身を削って努力をすることができない私がこの人生で、真剣に努力したと思っているのが就活だ。あのときは、人生で初めて自分というものと向き合い、自分が求められる会社を探し求めて、本当にやりきったと思った。

そして、その経験を超えるほど努力したという経験がないままに、社会人歴を積み重ねた。上司の良かったよという評価も、自分的に全力でやりきったという努力をした感じがないので、棚ぼた的な評価と感じ、周りの同期に比べて自分は劣っているんじゃないかと、自分の成長に不安を感じていた。

追い打ちをかけるように、ある社内の研修で、定年まじかの男性社員との会話で、若い頃は無茶苦茶に仕事して大変だった。今となっては良い思い出だ。私は全力でやった努力は、就活しかないと言ったら、それはかわいそうだ。もっと全力でやった方が良いと言われた。そのことで、やっぱり私は努力が足りないのだと思い込んだ。

努力=残業という誤解

頭では残業するから成果が上がるわけではないと分かっているけれど、やっぱり全力でやるってことは残業をバリバリこなして極限の完成を目指すことなんじゃないかと考えてしまっていた。

それで、残業をあまりしない自分は、努力が足りないんじゃないかと悩んだりもしていた。そのうえ、やっかいなことに残業を阻害する要因は、自分の気持ちの問題もあるけれど、夫の存在も阻害要因なんじゃないかと考えていた。

なぜ夫が阻害要因かというと、残業したくても夫のために夕飯をつくらないといけないから、残業ができない。仮に夕飯をつくらなかったとしても、何か買って帰らないと夫はごはんを食べられないのだから、私はそれなりの時間には帰らなければならない。という勝手な妻としてのの役割意識に悩まされていた。努力を勘違いしている上に、努力できないことを人のせいにするという最悪な状態で悩んでいたのだ。

その結果、もっと頑張れるはずなのに、それなりにしかやってない自分は大したことはないと、周りの評価を疑い自己評価が低い状態に陥っていた。

努力の仕方は人それぞれ

全身全霊でやる努力もあれば、日々コツコツと積み重ねる努力もある。精根尽き果てるまでやるのが努力と思っていたので、私は努力ができないクソ野郎だと思っていた。でも違った。私はコツコツタイプの努力をちゃんとしていた。

自分努力できないと思い込んでいた私が、なぜ努力できるんだと思うことができたのか。それはひとえに、友達と夫のおかげだ。

他人は自分を映す鏡

夫や友達と対話をしていたおかげで、私は努力に対する誤解に気づくことができた。内省して考えることはよくあるのだけれど、やっぱり一人では自分の歪みに気づくのが難しい。人と対話を重ねることで、自分の歪みに気づくことができた。他人は自分をうつす鏡だとはよくいったものだと思う。

まとめ

今回の一番のポイントは友達や夫との対話を通して、自分は努力できる人間だと気づいたことだ。勝手な想像だけど、世の中には私と同じように独りよがりで自己肯定感を下げてる人が意外と多いんじゃないかと思う。で、そういう人は自分と向き合っているつもりで、ズレたところばかり見てるんじゃないかなという気がする。なかなか、努力について語り合える人は近くにいないかもしれないけれど、一人で抱え込まないのが大事だなと思った。

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