見出し画像

「『ね?』って、なんで言ったの?」

娘に対して日常的に使ってしまう言葉に、「〇〇しよう、ね?」という言い回しがある。「お着換えしちゃおうよ、ね?」「一生懸命食べよう、ね?」のように多用しているようだ。ようだ、というのは主題のように娘に指摘されて初めて自覚したからである。振り返ってみると、朝のバタバタした時間帯や、食事や入浴など1日のルーティンにおいて、『時間に追われて気持ち的には焦っているけど、子どもが滞りなく遂行できるよう、怒ったり不機嫌さを出さず促したい』という場面が多い気がする。

親に言われなくても片付けをしたり、着替え始めるといった事が成長に伴い増えてきたが、見覚えのないネジでも転がっていれば目前のことなど放り出して遊びだしてしまうし、服を脱いでいる最中に脈絡もなく自作の歌を歌い始めるのも日常茶飯事だ。保育園だとそんな事はないらしいのだが。

そんな日々の中で飛び出した娘の素朴な疑問が「『ね?』って、なんで言ったの?」である。私が「〇〇しよう、ね?」と声をかける度に質問されるようになった。その度に「早くお着換えするといっぱい遊べて楽しいよね、って事だよ」などと意図を説明すると、娘は「そっか~」と素直に納得して会話は終わる。

この「ね?」の言葉に、あるカウンセラーさんがブログで書いていた記事を思い出し、再度検索して読んでみた。
例えば、親が子どもに「学校楽しかった?」と聞く。子どもは「うん」と答える。それに対する親の反応が「よかったね」と言った場合と、「よかった」と言った場合、後者の方がより子どもの心が耕されるという。
どういうことかというと、「よかったね」は子どもの気持ちへの共感を示し、「よかった」は親自身の安心を表す。
子ども発信で「学校楽しかったよ」と親に伝えたのであれば「よかったね」という共感でいいのだが(子ども自身が共感を求めていたため)、そうではなく、親が一方的に学校が楽しかったのか聞いた際の「よかったね」はやや押しつけがましい感じがすると。無理やり言わせて無理に共感する感じだろうか。
「よかった」の方が、子ども自身が大事ないことに親は満足する、安心することを示せるので、心が耕される(自己肯定感が上がる、というニュアンスなのかも)と。

つまり、「ね」が語尾または文末に付くことによって、親の思った通りに動いて欲しい、またはこうあって欲しい、というコントロールを子どもに対し無意識にかけてしまうのではないかと感じ、はっとした。
「よかったね」の例と、私が言う「ね?」は少し意味が違うかもしれないが、子どもの自由度を下げるという点では共通するかもしれないと感じたのだ。
大げさかもしれないが、いわゆる「いい子」に誘導する手口に繋がるような気がする。
親の機嫌や顔色を伺い、「ね?」に従って自分のしたいことを抑える子どもになって欲しくないので、最近は少し表現を変えたり、試行錯誤している。

すると昨日娘が「ママ早く行こう、ね?」「今なんで『ね?』って言ったか分かる?」と逆質問・・。鏡ですね、子どもって。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?