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春、東京の街で

「いつか渋谷に行ってみたいの、東京に行くときは連絡するから案内してよ」
それが、彼女と交わした最後の言葉だった。


東京の大学に進学することになり、18年間暮らしていた街を出た。
特に何かを学びたくて上京したわけではない。
ただ、田舎過ぎるこの街で、一生暮らしていこうとは思わなかった。

いずれは、またここに戻るかも知れないけどその前に

ここ以外の場所に行くなら今しかないと思っていたに過ぎなかった。

勉強は嫌いじゃないし、今の学力でも行ける大学はそこそこあった。

親には「自分の将来のためにはどうしても東京で勉強したい」
などと、それなりのことを、思いついたまま言葉にした。

学費のこともあるし、別に地元の大学だって勉強ができないわけじゃない。

ただ、少しの好奇心と憧れとこの街から出たいという願望だけだった。

そんな薄っぺらい理由では両親には許して貰えないと思った。

それでもあっさり許可が出た時は、驚いてしまった。

ただ、3歳年上の兄には「上手くやったな」と厭味 を言われたけど。


卒業式が終わった後、謝恩会の途中で彼女と会場を抜け出した。

近所の公園のベンチで、肩を寄せ合いながら「陽が沈むと寒いね」なんて言いながら、緊張しているのが伝わらないようにそっと彼女の手を握る。

恥ずかしそうにうつむきながらも、少しはにかんだ笑顔がかわいい。

地元に残る彼女とは、もう会えなくなってしまうのだろうか?
今日で彼女とは別れることになるのだろうか?

お互い言葉にするのが怖くって黙ったまま、時間だけが静かに流れていく。

「もう、帰らないと。お母さんが心配しちゃう」彼女がとても小さな声でつぶやく。

手から伝わる温もりが消えてしまい、少しずつ指先が冷たくなっていった。

「いつか渋谷に行ってみたいの、東京に行くときは連絡するから案内してよ」
涙声なのに、必死に笑顔でそう言う彼女が意地らしかった。

本当は抱きしめて、離したくなかったけど、
勇気がなくて「ああ」という間抜けな返事しかできない自分が情けない。

あれから、何度目かの春がまたやってきた。


大学を卒業して、地元に帰ろうかとも一瞬思ったけど、帰ったところで居場所はなかった。

兄が結婚し、両親と兄夫婦そして2人の姪が実家にはいる。

友人も何人かは家庭を持ち、幸せに暮らしている。
所帯を持った奴らとは頻繁には顔も合わせられない。

東京に残るという選択肢しか残らなかった。

偶然にも勤務地は渋谷だった。

彼女が行きたいと言っていた渋谷の街。

実際はテレビで見るよりも人は多いし街はお世辞にもきれいとは言えない。

憧れは、憧れのままの方がいいのかも知れないと初めて思った。

上京したばかりの頃はすれ違うだけでもやっとだったスクランブル交差点は
気が付けば、周囲の人に混ざって普通に歩けるようになっていた。

毎朝、いつ殺人がおきてもおかしくなさそうな、朝のラッシュだけは未だに慣れないけど…


ある日、仕事の帰りに小さな映画館に立ち寄った。
昔、彼女と見た映画を上映していたからだ。

あの頃が忘れられないわけじゃない。

ただ、なんとなくあの頃の空気を懐かしく思いたいだけなんだと思う。

映画を見終わって「あれ、この映画のラストってこんな感じだっけ」とモヤモヤしながら
ロビーである程度人が減るのを待っている時だった

どこかで聞き覚えのある女性の声が聞こえる。

こんなところで、知り合いの女性に会うなんてことはない、気のせいに違いないと思っていた。

さっきより大きな声で、名前を呼ばれた。
振り返ると、彼女に似た雰囲気の女性が立っている。

よく見ると、似た雰囲気の女性ではなく彼女だった。

派手な化粧と服装のせいで彼女と分かるまでに、かなりの時間がかかったけど…。

「ああ…久しぶり」と声を出すのが精一杯で、それ以上の言葉が何も出なかった。

彼女の見た目が別人のように変わってしまったからなのだろうか…

「全然変わってないから、すぐ分かったよー。」
「こんなところで会うとは思わなかった!」
「この映画懐かしいよね。一緒に見たの覚えてるでしょ?」
とケラケラと笑いながら一気に喋っている。

こんな明るい感じの子だったっけ?やっぱりよく似た人なのではないかと、彼女の話声の裏側でそんなことをぼんやり思っていた。

「あ、こっちだよ!」彼女が誰かを呼んでいるので視線を向けるとスラっとした俗に言う「雰囲気イケメン」が視界に入って来た。

「今日は、彼氏と映画見に来たの!久しぶりに会えて嬉しかったよ。」そう言って手をひらひらと振って雰囲気イケメンと夜の街に消えて行った。


後になって高校時代の友人から聞いた話。

高校を卒業して2年くらい経った頃に彼女は急に家を出てしまったらしい。
家族にも誰にも言わずにいなくなったので、その当時はちょっとした騒ぎになっいたのだ。

彼女の妹に「助けて」と連絡が来たときには、家出をしてから半年ほど経過していた。

その当時付き合っていたバイト先の店長と恋仲になり盛り上がって駆け落ち同然で家を出たまでは良かったが、相手には多額の借金があったらしく、店の売上にも手を出していたのだ。

横領で捕まる前に彼女と駆け落ちすると見せかけて逃亡した。
彼女がそのことに気が付いたのは、数か月後、警察が訪ねて来た時だった。

更にタイミングが悪いことに、妊娠が発覚してしまい親にも誰にも言えずに悩んでいたそうだ。

妹に連絡したのは、堕胎手術が可能なギリギリのところだったらしい。

実家には帰れなかったようで、その後は妹とも連絡は途絶えてしまっているとのことだった。

彼女に会わない間に何が起きていたかなんてあの時知りもしなかったから、ずいぶんと変わってしまった彼女を見てショックを受けたけど、友人からの話を聞いて更にショックを受けた。


思い出は思い出のままで良かったのかも知れない。

高校を卒業した後の彼女のことは知りたくは無かった。

そして今朝もいつ殺人が起きてもおかしくなさそうな通勤ラッシュの時間帯にこの駅に降り立つ。

風に舞った桜の花びらを見ると彼女のあの言葉を思い出す。

「いつか渋谷に行ってみたいの、東京に行くときは連絡するから案内してよ」

一体、いつになったらこの言葉を思い出さなくなるのだろう…。

もう彼女の顔も思い出せないくらいなのに…。

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