【第七回】チャップリンが生きた道~愛した女性たち①~
チャップリンの二番目の妻はリタ・グレイ(本名 リリタ・ルイーズ・マクマレイ)という女性である。
1924年にチャップリンとリタは結婚をした。当時のリタの年齢は16歳という若さであり、最初の妻ハリスと同じく妊娠をきっかけに結婚することになる。(後に、前妻ハリスの妊娠は虚言だったことが発覚するが)
カリフォルニア州法では未成年者と関係を持つと強姦罪にあたるため、チャップリンは結婚せざるを得ない状況となり、1924年11月26日にメキシコで結婚式を挙げた。
リタは12歳の頃に「キッド」でチャップリンを誘惑する天使役、「のらくら」ではメイド役で出演している。「黄金狂時代」ではヒロイン役として出演する予定だった結婚を機に、家庭に入ることになり降板。代わりにジョージア・ヘイルが演じることになる。
リタは美しい顔の持ち主だったが、悪名高い女性として知られている。
チャップリンとの間に2人の子供(チャールズ・チャップリン・ジュニアとシドニー・アール・チャップリン)をもうけたが、幸せな結婚生活とは程遠い日々を送る。
チャップリンはリタを避けるかのように映画制作に没入し、愛に飢えていたリタは1926年11月に子供2人を連れて家を出た。翌年、1927年1月に離婚訴訟を起こし、チャップリンに100万ドルという多額の慰謝料を請求。さらに、チャップリンに対する誹謗中傷の訴訟書類と、私生活を赤裸々に暴露した。
今回の訴訟はマスコミを賑わせ大ニュースとなり、アメリカ各地でチャップリン映画のボイコットが行われたほどである。しかし、ボイコットはさほど効果がなかったようで、チャップリンの評判はガタ落ちすることなく終わった。
1927年8月に離婚が成立。チャップリンはリタに60万ドルの支払いと、2人の子供に信託資金10万ドルを支払うことになり、子供たちに会える権利を得た。
リタとの離婚騒動によるストレスは相当なもので、チャップリンは心労で白髪になった。だが一方で、訴訟によりリタの評判は落ち、結果的にチャップリンは世間から同情の目を向けられることになった。
さて、これまでのチャップリンの結婚遍歴を見てわかる通り、未成年者の女性と結婚している。十代の女性を好むチャップリンに「小児科医」というあだ名がついていたほどである。
このようにチャップリンが十代の女性を好む理由は、過去の恋愛が大きく影響している。
チャップリンの初恋相手はヘティ・ケリーという女性である。
19歳の頃のチャップリンは、カーノー一座の花形コメディアンとして活躍し、毎日同じような生活を送り将来の夢もなく過ごしていた。
当時のカーノー一座は、ストレッタム・エンパイア・シアターで公演を行っており、カーノー一座の前に「ヤンキー・ドゥードル・ガールズ」という一座がストレッタム・エンパイア・シアターで演技をしていた。
舞台袖に無関心に立っていたチャップリンは、ダンス中に足を滑らせた女性を目が合った。
その女性こそがヘティ・ケリーであった。
チャップリンは当時15歳だったヘティに一目ぼれした。チャップリンの自伝では、ヘティに対する印象をこのように語っている。
ヘティが髪を直すあいだに手鏡を持ってほしいとお願いされ、彼女をじっくり観察するチャンスを得た。水曜日には日曜日にデートしてくれるか尋ね、午後4時に会う約束をした。
デートを数回重ねたが、チャップリンは失恋してしまった。
チャップリンは早々に結婚話を切り出していたが、まだ15歳だったヘティは「(結婚するには)若すぎる」と答えている。また、「あなたは多くを望みすぎる」と言い、チャップリンは愛されていないことを悟り別れを決意した。
ヘティに会ったのは合計5回で、日曜日のデート以外は20分を超えることはほとんどなかった。
1918年7月にヘティはチャップリンに手紙を送っている。チャップリンは返事の手紙を送ったがヘティが読んだかどうかはわかっていない。
その後ヘティは、1918年10月にスペイン風邪に罹患し、数日後に肺炎を併発させてしまい1918年11月4日に亡くなった。
ヘティとの儚く短い恋はチャップリンの人生に大きく影響を与え、生涯における理想の女性像となった。過去の失恋で心にぽっかりと空いた穴を埋めるために、ヘティのような若い女性を好んだと思われる。
ー続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?