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信じる、ということへの猜疑心

つい数ヶ月前まで、私はたくさんの方から
「何か困ったことがあったらいつでも連絡してね」
と言っていただく機会がありました。
とても大変な状況下にあったので
周りの多くの人が手を差し伸べてくださって本当に感謝しています。
でもその時にひとつ感じたことがあって。

その中に、とても親身になってくださって
お食事を一緒にしたり、私の内面にも深く切り込むような
そんな会話をしてくださった方がいました。
私もその方のことを、家族のように感じて
自分の心情を逐一話していました。

でもね、ある時から連絡が全く来なくなったんです。

何があったかはわからない。
その方だってご自分の生活がある。
仕事も忙しいし、年末年始だし、ご家族のことだってあります。
誰だって自分のことが一番大事なんですから仕方のないこと。
私もそれは当たり前のこととわかっているんです。
もしくは私が何か気に障ることを言ってしまったのかもしれないし。

でも、私の心には小さな擦り傷がつ来ました。

その時にわかったんです。
継続的に手を差し伸べられないなら、深く切り込んじゃいけない。
援助の手は誰にだって必要。
でも継続的に手を差し伸べられないなら、一定の距離が必要だなって。

よくテレビでも、今回の震災でも、過去の震災でも、
継続的な支援をといいますよね。
私はあの意味をわかっているようでわかっていませんでした。
その状況に遭っていない人たちにとって、
やはり自分のことが一番だから、当たり前のことで仕方のないことだけれども、出来事というものは風化してしまう。
いっとき支援やボランティア活動だの、言い方はとても悪いですが、盛り上がります。
でもニュースで流れなくなると忘れてしまう。
「ああ、あの震災からもう一年なんだね」なんて言えてしまう。
でも被災地の方にとっては、ずっとずっと続いている。
助けを必要としている時間は、一年先も数年先も続いている。
心の傷は風化しない。

手を差し伸べるなら、誠意を持って差し伸べないと相手を傷つけてしまう。
だからといって、支援を否定している訳ではありません。
誰が被災してもおかしくない今の時代、誰かが困っているときに即座に手を差し伸べられる人間でありたい。
だけど、差し伸べ方というんですかね。
その時だけの援助なら、必要以上に親身になってはいけないかなって。
その人が心を開いてくれた時のことまで考えないといけないなって。

私の心の傷は猜疑心という名前で今も小さく瘡蓋を作っています。

甘っちょろいこと言っているのかもしれません。
でも私は誰の心にも傷を作らない人間関係を築きたい。



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