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アイス屋さんだった祖父母の話

祖父母はアイス屋さんだった。
それが私は子供の時からずっと自慢だった。

古くからそこに住んでるもんで、私の祖父母の家は東京の中心の方にある。でもべつにお金持ちなんかではない(もちろん)。大きい街だって一本入ると意外と普通に住宅街だったりする。東京は冷たい、とよく言うけど、私にとってあそこはあったかい場所だった。

祖父母の家は木造の二階建て。2階は下宿の人たちに貸してたから実質平屋だった。昔トラックにぶつかられて割れた勝手口のすりガラスがそのまんまになっていて、エアコンは古くて、ピッて言ったり言わなかったりする。縁側やお勝手を入れるとなんでか入り口が4つもあって必ずどっかしらの鍵が開いていた。でも泥棒に入られたことはなかった。よっぽどなんにも無いように見えたんだろう。そのとおりである。自転車で行ける距離だったので、私はそのどっかしらから、よく勝手に入り込んでいた。

祖父母の家はアイス屋さんだったので、大きな大きな冷蔵庫が2つあった。横幅は大人一人入れそうな大きさで、小学生の私がしゃがんで隠れられるくらいの深さがあった。そこに肉まんとあんまんとそれからアイスのつまった段ボールがが山ほど入っていた。もちろんカギがついていたけれど、私はそのカギの隠し場所を教えてもらっていて、そこから好きなだけ好きなアイスを食べていいことになっていた。だから、小さい頃アイスを買った記憶がない。

ジュースもたくさん置いてあった。祖父母はジュースを自動販売機に詰めるのもやっていたので。そのジュースも勝手に飲んでいいことになっていた。私はイチゴオレやバナナオレやアリナミンCが好きで3個も4個も飲んでいた。元気に夜ご飯も食べていたので、母にはバレていなかった、と思う。私がジュースを取りに行くと祖父が「ありさーイチゴオレも!」とか言うので、二人で甘いジュースを飲みながら金魚とかを見ていた。私が屋台ですくった金魚たちは小さいフナくらいの大きさまで育っていて、私が池で捕まえたドジョウがたまにサッと横切った。

祖父の作る太巻きが好きだった。白いご飯に鰹節とシラスと醤油がぺぺっとかけられたやつ。本当に大きいのだけど、それももりもり食べていた。私が来ると、祖父はよっこいしょと立ち上がって太巻きを作ってくれる。祖父が作れる唯一の料理だったのでは?と思っている。醤油がうまい調子でかかっていて、ご飯がきゅっとしてて、おいしかった。祖父は手のひらが厚く、握力が強かったので、お米の量が多くても、ぽろぽろ崩れないようにぎゅうとうまく巻けたのである。台所の脇にあるテーブルに向って少し中腰の祖父の背中を覚えている。そういやあのテーブルはなにに使うんだったんだろう。調味料が置いてあった気がする。私はつまみ食いの時くらいしか使ったことがない。あそこには絶対味の素があって、なんかやたらと味の素使っていた気がする。トラックが外を通ると、がたんと揺れる机だった。

家のそばには駄菓子屋があった。祖母のお友達が代々やっている駄菓子屋で、近くの小学校の指定の上履きとか体操着も売っていた。私が祖父母の家に行くと、祖母がよく作業をしている机の下から、なんかちょっと上の方が破れた段ボールの箱が出てくる。その箱を取り出すとき、なんでか祖父は宝物を見せるときみたいな嬉しそうな顔をしていた。祖母はちょっと得意げだった。祖父母はそこに自動販売機から回収してきた小銭を入れていて、そこから50円取り出して私にくれた。私はそれを握って駄菓子屋に走って行って、ヤッターメンとかかるめ棒とかモロッコヨーグルとかを買うのである。そうすると、店のおばちゃんがおまけで一握りのゼリービーンズを入れてくれる。今の時代じゃ信じられないが、手掴みでビニールに直入れである。私の胃はこうして強くなった。

私の家は漫画が禁止だった。絶対読ませてもらえなかった。でも祖父母の家には、父や叔父が残していった漫画がたくさんあったので、私はそれを好きに読んでよかった。だから私はドラえもんとか、パーマンとか、スローステップとかを読んで育った。父が面白いというので、ビーバップハイスクールとかも読んだ(何が面白いのか小学生にはよくわからなかった)。祖母は母が買ってくれない「ちゃお」を買ってくれた。買う月が飛び飛びになるので、お話はよく分からなかったけど、キャラクターが分かるだけで、クラスメイトの話には着いていけるので十分だった。あの家にいる間、ほとんどの時間漫画を読んで過ごしていた。


あの時代、夏は今より少し涼しかったのだろうか。扇風機の前でアイスを食べながら、私はいつも漫画を読んでいた。もう何度も読んだ5巻しかないパーマンや50巻以上あるドラえもんを。傍らに飲み終えたイチゴオレと食べかけの駄菓子が転がっていても祖父母はなんにも言わなかった。戸はいつも開けっ放しで、したがって蚊取り線香も炊きっぱなしだった。入口の所に。金魚たちが泳いでいる水槽の上に風鈴が釣るしてあった。なんの柄だったかな、あれは。

思えば、あの辺には下町風情が残っていて、なんか通りがかる人みんな祖父母の友達という感じだった。私はよく祖母について、知らない人の家に行っては大人たちが話している間ケーキを食べたりその辺の置物を眺めたりして過ごし、祖父が通りすがりの人にアイスを配るのを手伝ったりしていた。全然知らない人の赤ちゃんをあやしたり、○○さんのお孫さん(今日初めて会った)と一緒にお使いに出されたり、まぁいろいろあったけど全部面白かった気がする。私は平成も10年の生まれなので、私が幼い頃あの辺にはまだ昭和の残り香があったのかもしれない。

先日祖母が息を引き取った。祖父は私が高校生の時に鬼籍に入ったので、私の祖父母の家はこれをもって正式になくなった。実は今にも潰れそうな方の木造2階建ては祖父の死を機に建て直されたので、あの家は数年前にもう無くなってしまったのだけど、それでも祖父母の家はずっとあったわけで。この間、祖父母の家の最寄り駅を通りがかって、ここにはもうなんにもないということに気が付いてびっくりした。生まれてこの方この駅は、祖父母の家に続く駅だったから。大学生になって、忙しさにかまけてあまり来なかったことを後悔していいだろうか。すこし図々しすぎるかな。
でも、私の「らしい」子供時代は、やっぱり全部あの木造の家に詰まっていた気がする。猫の額の庭、縁側みたいな玄関、風がいつでも通って行った古い家。

ちゃきちゃきの下町っこだった、
おしゃれなおばあちゃんの旅立ちによせて

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