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変身願望

それは、鏡の前でちょっと化粧をしてみたり、派手な衣装を着けてみるような生半可なものじゃない。あらん限りの想像力を補って「見えない人」になるという「変身」。

生物の種が違えば体のつくりが違い、つくりが違うから世界のとらえ方が違う。というような、また、いつしか鳥が飛んだように、進化の過程で、ある器官から思いもかけない能力が生み出され、その器官と能力の関係が決して固定的でなかったからこそ、柔軟にイメージできたような、遥か壮大な話から流れつく新たな「見えない」世界。

憧れた生物学から回り道して辿り着き、学び体得した著者ならではの美学という手法で「障害」とりわけ「視覚障害」を紐解く痛快な新書。

福祉視点ではなく美学視点で解き明かすという、なぜなら美学こそ、言葉にしにくいものを扱い身体性に重きを置いてきた学問だからと。

「自分と異なる身体を生きる」とは、その「体について体で理解する」ことが望ましく、それはまさに美学の究極形態となると著者は言う。

視覚からうる情報がほとんどだから、見ることでわかったつもりになってしまう、
八、九割を負っているという視覚に頼る「見える人」の住む「情報」の世界 VS.
視覚に制限されない、むしろ情報の欠如が招く自由、視野を持たないゆえに視野が広がり、視覚がないから死角がない、「意味」のみが存在する「見えない人」の世界。

見える人が目で見て済ませていることの多くを、見えない人は記憶で補っているという事実。

いわゆる五感の中で視覚が一位、聴覚が二位とその機能においてではなく、精神的であるがゆえに高次とされる二大感覚であり、
目が理性だとすれば、耳は魂だと、知る。

見えない人と見える人にあるのは、
「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」。美術館のワークショップで行われるゴールまでのプロセスを共有するソーシャル・ビューが単なる意見交換ではなく、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつする共同作業であるからこそ、お互いの違いが生きてくるということ。

また、過度な善意も好い関係性を築くには困りもので、障害を笑うことによって、「善意のバリア」がほぐれることもあるということ。

違いをなくそうとするのではなく、違いを生かしたり楽しんだりする知恵の方が大切である場合もあるということなど、多くの興味深い学びがあった。

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