メスガキ、社畜になる。

「き、君!上司にそんな態度取っていいと思ってるのか!!」
「うっせぇんだよハゲ、三下は黙って俺の言うこと聞いてろ、」
俺はなけなしの力を振り絞って抵抗する部長の、残り少ない頭髪を鷲掴みにしながら、額をデスクに叩きつける。
 ゴスっと、鈍い音が響く。
「うくっ、ううぅ…」
「俺の昇級の話、ちゃんと通しとけよ。こんな底辺共と仲良くお仕事する気なんてねぇから。」
 頭をぐりぐりと押し付けながら、顔面を覗き込む。どうやら泣いているらしかった。
 本当に救いようがない。こんな三流商社で何十年も働いて、未だにこの程度の地位。醜悪な外見で、当然女もいない。挙句俺のようなガキに何も口出し出来ないときてる。
 本当に、なんで生きていようと思えるんだ?全く理解できない。
 その点俺は、こいつの真逆だ。親はグループ企業の社長で、金もたらふくある。女にも困ったことは無いし、勉強やスポーツも、やればなんでも出来た。有名企業からも山ほど声がかかって、華々しい未来が俺に訪れるのは、火を見るより明らかだったのだ。
 そんな俺がこんな湿気た会社に配属されているのには理由があった。それは、親父が俺にそういいつけたからだった。

「大学を出てからまず、お前にはある商社に入社して貰う。面接は特別に免除してもらったから、4月から、ある人の許可が出るまで、そこで働きなさい。」

との事だ。ある人とは、詳しく伝えられてはいないが、部長のことだろうと思っていた。
 しかし、あいつはあの様子だ。とても親父の信頼に足る人物とは思えない。
 きっと、親父の言うある人物とは、この子会社の社長のことであろう。華麗に多くの結果を出し、自分が社会でも通用する人間なのだということを証明して見せろ、ということに違いない。
 もしそうであるなら、こんな小さな部署にいつまでもいる訳にはいかない。親父は俺を試しているのだから。そこらの子会社程度、簡単にかけ上ってくるやつでないと、自分の跡取りは任せられないと思っているのだろう。
 俺は一刻も早くここから上へ登らなくてはならないのだ。
 そのためには、、、
「あ、あの、もう離してあげて…」
 小柄な女社員が俺の後方からつぶやく。
 おっと、こいつのことを忘れていた。
 どうやら気絶しているようだ。つくづく見下げ果てたやつだ。こんな大勢の部下の前で、少し脅されたくらいで失神とは。
 俺は振り返り、その女社員に言いつける。
「おい、こいつが目を覚ましたら、俺の昇進の件、ちゃんと伝えておけよ。」
「え、あ、はい…」
 そう言い残すと俺は、苛立つ気持ちを必死に抑えながら、渋い足取りでオフィスを後にした。

 日は既に落ちかかっている。橙に染まる空は、逸る俺をさらに焦らせた。オフィスの屋上は、周りの建物よりも一段と高く、暮れなずむ都会のビル群を一望するには最適の場所だった。しかし、俺はそんなものには目もくれず、鉄柵に寄りかかり、足元のほつれた靴紐ばかり眺めていた。
「こんなところで手間取ってる訳には行かねぇのに、、もうすぐ一年だぞ…」
ここに入ってから、俺には大きな誤算があった。それは、仕事を開始するスピードだった。当初の目標では、一二ヶ月で、幹部くらいにはなっているつもりだったのだが、あの部長による、オリエンテーションのような、マナー指導などが立て続きに行われ、本格的に仕事を開始するのがかなり遅れたのだ。
「こんなとこで一年もいて、まだ何も進んでない、、、親父に見限られる前に、早いとこ結果を出さねぇと…」
「焦っても仕方ないよ。」
後ろから声がする。
 振り向くと、三十半ばほどの女がたっていた。どうやらこの会社の社員らしい。しかし話したことはおろか、見たこともない奴だった。平均ほどの身長に、肩ほどの茶色がかった髪。前髪をカチューシャで上げ、額が顕になっている。
「だれだ?お前。」
「あんたの上司よ」
「見たことねぇけど。あんたなんか」
「違う部署ですものね」
「俺になんの用だよ」
「いや、また活きのいいのが入ったって聞いたから…あの人から」
あの人…?あの人だと。
「あの人って誰だよ?」
「言えないわ、、ふふ、やっぱり昔の私と同じ目してる。」
なんだ、この女。気持ち悪い。
 俺を見透かしているような視線。お前の考えていることなどお見通しだぞ、と。訴えかけてくるようだ。
 無性に腹が立ってくる。
「それにしても、聞いたわよ。随分乱暴してるんですってね。誰も自分にやり返せないのを知っててそんな態度とるなんて、美形の割にちっちゃい男ね。」
「は?」
「あなたはね、何も分かっちゃいないのよ。世の中の厳しさも、人間の恐ろしさも」
「お前は分かってるって言うのか??」
「あんたよりはね」
心に僅かに溜まりつつあった不安や恐怖などといった感情が、怒りで塗り替えられていく。
「俺にそんな態度って良いと思ってるのか??俺の親が誰か分かってるのか。」
「小林グループの元締、小林清治でしょ」
「わかってるじゃねぇか。それでそんな態度とるって、バカなのか?」
「あら、そんな態度とったらどうなるって言うの??教えてくれる?ご子息様。」
………….。
 別にいいか、ちょうど苛立ってたところだ。こんな年増一発や二発殴ったところで、親父がどうにかしてくれるだろ。幸い部署も違うらしい、もう会うこともない。
 俺は拳を握りしめ、女に躙り寄る。
「それは今から教えてやるよっ……!!」
 女目掛けて拳をふりかぶる。
 その瞬間だった。
 フワッ
 俺の上に地面がある。そこに女も立っている。何が起こった。一体何が…
 考える間もなく、俺は地面に叩きつけられた。
「あ゛っ、」
 全身の骨が、コンクリートに打ち付けられる。この女にやられたのか。そんな馬鹿な。
 痛みで脳が回らない。口の中の至る所が、砕けた歯で切れている。
 俺は薄れそうな意識の中、最後の力を振り絞って捨て台詞を吐いた。
「今は、疲れてたんだ………!!そうじゃなきゃ、お前みたいな雑魚…、」
「雑魚…かぁ…..。」
 女は俺を見下ろしながら、自嘲じみた笑みを浮かべ、その場にしゃがみこむ。
「ほんとに、昔の私そっくりね。」
 今しがた、コンクリの上で合気道の心得を披露したとは思えない慈悲深い声色。もう俺はこの女に恐怖以外の感情を抱いていなかった。
「あたしも、昔はあなたみたいだったのよ。なんでもできて、何でも持ってた。生意気だったし、全員が下衆に見えてた。」
 女は語り出した。もう一言も発することは叶わない、亡骸のように横たわる俺を横目に。
「あたしの親も金持ちで、知ってるでしょ、『ララホテル』。あたしの親、その会社の社長だったのよ。あんたもそういう口でしょ。権威ばかりに目が眩んで、なにも、見えてなかった。何も、『分かってなかった』」
 女は、細く白い手を俺の額に押し当てた。
少しひんやりしている。
「他人に無理やり気づかせてもらうこともできるけどね、世の中は、金や暴力だけでは解決できないことが沢山あるの。できることなら、自分で気がついた方がいいのよ。あたしの親も、あなたの親も、あの人も。きっとそれを望んでいるの。」
「そ、それは、まさか。親父は俺に、カリスマ性を証明して欲しかったんじゃなく、、」
「そう。」
 なるほど、俺はここでようやく、この女が俺の元に現れた理由を理解した。注意喚起だ。
 自分が受けたような目にあって欲しくない。
 何も分からずに大人になってしまった。
 否、何も分かっていないから、大人になったと思ってしまった。恵まれた環境のせいで、なんでも思い通りになると思ってしまった、人間を矯正する場所。
 それがここ、「佐古珍商事」の真の役割だったのだ。
 女は、自分の服の裾に手を当て、めくっていく。
「な、何を…」
「みて、」
 女の腹部には、済、という文字と「荒川慎二」という名前が、刻まれていた。

 それは部長の名前だった。

「シールじゃ、ないの…ないんですか。」
「めくれるならめくってみる??」
 女は余裕ありげに、ハハと笑う。
「あたしの言ってる意味がわかったなら、明日からの態度はどうすればいいか分かるわね?」


 ネクタイをキッチリと締め、ボタンは上までとまっている。背筋は伸び、不貞な態度は一切見受けられない。男は見違えるほどに変化していた。もちろん、良い方へ。
 目の前には、部長、荒川がいた。
「間に合ったみたいだね、今日から指導を開始しようと思ってたんだが、その必要は無さそうだ。」
「気づかせてくれたのは、そちらの方です。」
 男は、荒川の後ろに佇む、例の女職員を指さす。
「彼女が、今の僕の課題を教えてくれました。」
「そうなのか?」
荒川部長は、女を振り返る。
「あたしは何も。分からせてなんかないわ、彼が自分で気がついたのよ。」
「そうか。」
部長は、男に向き直り、再び口を開く。
 その仕草の節々に、昨日までの弱々しい姿は散見されない。これが「指導モード」なのだろうか、と、男は思う。
「あなたの父親に、そちらへ息子さんを返すように、伝えておこう。準備しておきたまえ。」


「自分で気づいて欲しかった、だと??全く、これだけ痛い目に合わせているというのに、その性根は全く治っておらんじゃないか。」
「んもう、仕方ないじゃない。だって、荒川部長、どっちもいけるんですもの。私の時間が減っちゃうなんて考えられないわ。」
「ふん、お前が初めて来たのは18の時か、ガキだったお前ももう立派な社畜だな。」

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