【詩】転変

 思っていたのとは違い、居住環境はよかった。僕は六時半に起床し、食事とその他諸事を済ませてから家を出た。玄関を出ると家の壁は鉄柵に変わり、帰還という概念が蒸散して思想的白煙となった。これは繰り返される事物の社会的な転生である。毎回外出のたびに僕と、他の僕たちの関係は刷新された。肉体と肉体のまとう物理的、もしくは社会的環境は言語空間を彷徨う集団記憶の痕跡に過ぎない。そこに何の詩情があるというのか。
 僕は詩人である。もっとも昨日は自意識を定義することに慣れない十六歳の女性であった。五十メートルほどの高さの鉄塔を登って、その天辺で強風にさらされていた。なぜ僕は、いや、その時は「私」と自分を呼称していたが、そんなところへ登ったのだろう。銀色の肌の、小さい魚の群が塔を取り巻いて回遊していた。私の子宮は空っぽで、金属の釜のようだった。だから、もし魚たちが精虫の群であれば、私の生殖器はシラスを茹でる釜でもよかったのだ。生物相の転変の過程で様態を分かった、元来同一の事象が残酷な整序に従うまでのことであるから。そんなことを考えながら書きかけの数学のノートのように帰宅した「私」の欺瞞に、今詩人の僕は幾分か呆れている。
 今日家を出て詩人である僕のするべきことは、巨大な箱の、仕切られたスペースに立ったまま体を押し込んで、一定の間隔で瞬きをすることである。薄い立方体の箱には、恐らく二千を超えるパーティションがあり、上下左右に様々な僕たちが並んでいる。僕が詩人であるように、それぞれにそれぞれの属性が嵌め込まれているはずだ。僕は僕以外の僕たちが何であるのかということに、さして興味は持たない。たとえ自由意志で選択された連帯であろうと、連帯しつつ自由であると言うことは全くの虚妄である。僕たちはあらかじめ孤立している。
 瞬きの間隔、回数は内発的に決められたものでよいのだが、蓋を取った菓子箱のように外部に開陳されたビルの有り様からすれば、その瞬きする集団の全体を感知する客体が存在するはずだ。ただし、これもまた僕には関係がない。関心がない。僕が今、そう認識しているここの状況が、誰かにとって何であるのか、それは誰かの問題であって僕自身の問題とは別の何かだ。
 家に帰る岨伝いの道は、湾曲する歯列だった。ぬめりを持ったエナメル質が足下でテラテラと輝き、僕の体のバランスは歩を進める度に危うかった。やがて、舌を下って喉元から食道を潜り家へとたどり着く。多くの人たちが半透明の姿で歩いており、その中にかつて僕だった、あるいは私だった人も幾人か混じっていた。しかし、僕は昨日のことすらよく覚えていないから、過去の自分に何かを移入することもない。人びとは次々に視界から消えていき、消え果てたときにようやく僕は自分の部屋へ帰り着いていた。○だったり□だったりするものを箸のようなもので食べながら、テレビニュースを見る。受像器のディスプレイの上に光の波が打ち寄せ、僕の網膜はその波打ち際の光景となる。かろうじて知覚できたニュースのひとつに陰惨なレイプ事件があった。驚いたことに、加害者の男性も被害者の女性も、かつて僕であった肉体だった。僕はその顛末を視聴した時だけ、二人の、二つの肉体の感覚を同時に甦らせることができた。皮膚や内臓の持つ焦点距離の短い肉体内部の感覚が、今の僕の意識の下で内出血のように広がった。吐き気がした。現世で人であるということは、事程さように身辺が不衛生極まりないということらしい。
 僕は高さ二十六センチのベッドで眠った。僕の夢には真鍮のダイヤルが取り付いている。触ったことはないし、見たことすらないが、その削り出された金属の重量や触感、指先に伝わる回転の抵抗感、根のように地下を這う電気信号の径路を、僕は完全に理解している。背を丸め、肩甲骨を突き出させて眠る僕の体、一個体。
 それがこの世から丁寧に、払い拭われていく。
 僕の現在地とは
 異なる場所で
 詩が
 生成される
 この文章は
 詩ではない。

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