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ネット風評の恐ろしさ〜一つの情報を鵜呑みにした感情のSNSでの拡散

 昨日女優の竹内結子さんが死去されるという衝撃的なニュースが飛び込んできました。三浦春馬さん、芦名星さん・・わずか数ヶ月の間に素晴らしい俳優さんが亡くなられてしまいました。画面を通してしか観たことのない方達でも、亡くなられたという事実の前ではご冥福をお祈りするしかありません。
 この方達の死去について、あまりにも有名であるが故に世間の目は一気にこのことに向けられました。そして、はっきりと自殺であるとはどの事務所も公表していないにもかかわらず、多くの方達はその原因について語り始めました。私自身、どの方もとても素晴らしく、大きな業績を作品で残していて、凡人の私にとってどれだけたくさんの普通では持てないものを持っているのだろうと羨むような方達ばかり、だから、もしかして自殺が本当だとしたら、もったいない、という気持ちでいっぱいでした。でもそれは私の憶測に過ぎません。事実はただ一つ、その方達が亡くなられたということだけなのです。

 現在の報道の大きな問題は、その1つの事実によって100を語る人が多すぎるのが現実にあることではないかと思います。衝撃的なことが起こると、翌日のワイドショーではさまざまな事柄を持ち出して、親交のあった方のコメントなどを中心に番組が組まれ、いつしか亡くなられた原因について、さもそうであるかのような表現であれこれ言葉が放たれているのを感じます。
 そして、それを受けた多くの視聴者が今度は自分のSNSで感想や意見を述べ始め、<何故亡くなったのか>という原因を特定するかのようなコメントなどが書かれていくのです。それがいわゆるネット風評。直接な関わりのない人たちが勝手に個人的な思いを好き勝手に責任なくネットで拡散することです。
 そうした行為によって噂レベルのことが、拡散され、形を変えたりより強い力になって、企業や会社の経済的な影響を及ぼす風評被害の一部にある報道被害は、団体や会社のようなものではなく、一個人の人生を消滅させてしまう場合もあり、大きな社会問題となっています。

 最近私はこの風評被害(報道被害)を身近で目にし、その過程を追うに連れヒートアップ(炎上)していくことの恐ろしさを実感したので、考えていたことを文章にまとめることにしました。

 その前に、15年前にブログで詩を書き始めた時に、感じたコメントの力ということについて少し触れさせていただきます。
 当時仕事などで行き詰まりを感じながらも子育てもあり、自分を見つめる時間がほとんどなく、私は心で感じたことをノートなどで言葉にすることが唯一の癒しになっていました。そして詩や歌など、書きためてきたものをブログというツールにまとめることにしましたが、それは見せるためのものではなくただ、書いたものを自分で見たりできるだけで満足でした。
 そのうちに私のブログに来てくださる方が出始め、私も他の方のブログを訪れたりするうちにブログ仲間ができ、2,3年経つと毎日たくさんの閲覧者、コメント(感想など)が入るようになっていました。
 その時、それによって思い知ったのが、コメントの力でした。
 誰かが書いたコメントによって、私が詩に込めた想いがまったく違う方向に向いてしまうことがたびたびあり、1番初めに入れられるコメントの力は強く、ほとんどの方が詩を読み、そのコメントをまるでフィルターのように通過して感想が生まれていくことがあるのを知りました。
 言葉は読み手が生まれた瞬間から一人歩きをします。そして、その言葉により生まれた言葉がまた一人歩きをして、それが続くといつの間にか一番最初は何の話だったのだろうというくらい変化してしまうこともあります。それが最近私が直面したネット風評に似ていると感じました。<似ている>というのは、先に挙げた芸能人の方々の報道では、<亡くなられた>という事実が存在するものですが、私が目にしたネット風評は事実すら定かではないにも関わらず、勝手にネット上で言いたいことを言う集団が生まれた、と言う点だけが同じであるということのみだからです。
 
 話は戻りますが、現在私が目の当たりにしているそのネット風評について、簡単に説明をすると、一つの団体Aに対して、複数の団体BがSNSで記事を挙げたことで、多くの賛同者が出て、約1ヶ月になりますが、Aの団体が犯罪者のように扱われてしまう状況が生まれたということです。

 BはSNS上で、単にAに対する問題点を挙げる、というやり方ではなく、問題点を指摘するにあたり、感情的な言葉で非難、批判に満ちた文章を毎日、多い時は日に15以上の記事を上げました。その結果、日を追うごとにただの読み手だった人たちがB側の情報のみで感じたことをコメントとして書き込み、シェアが繰り返されました。
 一方A側では、最初からネット上でやりとりするべきではないという姿勢を元にしていましたが、あまりに過激化する状況に、お世話になった人たちへの説明として声明文を出しましたが、最初はB側のSNSだけで炎上していた人たちが、A側の声明文に対しても否定、批判、非難、時に誹謗を書き込み始め、それはAを擁護する人たちまでに及びました。そして、会ったことの無い人たちからAの代表者に対する誹謗中傷のコメントが毎日のように書き込みされています。

 一番の疑問は、Bがそこまで正当性を主張するのであれば、SNSの記事でAの代表者を名指しで誹謗したり、音声を勝手に使ったり、ひどい例えを用いて書いたりする必要ななく、きちんとしたしかるべき機関に事実確認を託し、必要であれば法的措置をとるべきであったのでは、ということです。それをせずにSNSで記事を上げ続ける様を見ていると、Bが発信した1は本当に100%事実なのかどうか疑問であり、その点こそが問われるべきではないかと思えてなりません。

 Bの記事により、日に日にAは悪の塊とされ、正義のヒーローのような人たちが生まれていきました。1から多くの人たちの感情を煽って生まれた憶測の100はもはや無限大と化しています。


  SNSというのは、ソーシャルネットワークシステムの略ですが、いかなる理由があろうとも、ネット上で特定の団体や人を誹謗すべきではありません。Bが挙げた記事の為に自分の感情に任せて一つの情報を鵜呑みする人たちを生んでしまった時点で、もはやSNSではなく、PNS、つまり、プライベートネットワークです。プライベートなら、憶測であろうが、意見や感想であろうが、お互いを知ってる人たちだけで充分であり、まったく関係ない人に届くことはありません。ため込まない方が良いような愚痴みたいなものを個人的に述べるというだけで済みます。でもそれを公の場所で書くことは、まさに、最初に挙げた方達のプライベートに踏み込むのと同じで、1から100を勝手に膨らませて信じ込んで拡散していく無責任な集団が生まれたということなのです。

 今この状況で正義感に熱くなり一緒になっている方達はどれだけの責任を持っているのでしょうか。もしもB側の代表者が取り上げたことがすべて真実ではなかったという確固たる証拠が上がってきたり、その他にも誰が見てもB側が窮地に立たされる事実が出てきたりしたら、同じように支持するのでしょうか。多くの風評を生む人たちは、恐らくその時にはそこにはいないでしょう。どんなことがあっても味方だよ、という人はいないでしょう。その瞬間、ひどいコメントを書いていた人たちは自分の身を守る為に姿を消すでしょう。おいしいものに飛びつく人たちはネットでは簡単に作れるのも問題であり、それをまた利用する人たちもたくさんいるのです。群衆という人の群れの中で、SNSという顔が見えない、リアな部分が出ない状況に乗っかって誰かを批判することの責任の重たさが問われます

 記事を発信する側は、責任があります。
 本当に真実であるかどうかが最も大切なことです。
 読み手が存在することを意識せずにやみくもに記事を発信することで、これはおいしいと飛びつく集団を生み、ただの中傷誹謗の渦を作ってしまうのではないかをしっかりと認識していかないとSNSでの無責任なコメントにより傷つく人たちは後を断ちません。反対に真実であるならば、SNSで感情的に拡散する必要はなく、相手に対してきちんとした形で抗議なりをすれば済むことなのです。

 今回私が読んだ記事の中には主観的で感情的な言葉が多く見られました。コメントに至っては鬼畜だとか、叩き潰してくださいとか、同じ目に合わせろとか、観念しろなどという言葉が大変な数書かれていました。ネットなら何を言っても良いのでしょうか。ましてや、まったく事実を知らないで、書かれていることだけで判断をして、コメントにコメントを重ねることがどれほど人を傷つけているかに気づくべきです。法治国家において、法的に明らかにされていない状況で一団体の一個人を名指しで批判、非難すると言うことはすでに犯罪です。そのほとんどが<〜だそうです>という憶測の書き方であるのにも関わらず、詐欺被害であるなどと、まるで犯罪者扱いの上に、証拠はまだあるので覚悟しろという脅迫めいた言葉も使われています。しかるべき機関の検査や審査などで判断されたものではなく、一個人、団体がSNSという公開の場所で決めつけ、審判をくだすことが正当なやり方であるならば、もはや法治国家とは言えません。これはB団体の主張への批判ではなく、目に余るやり方への私なりの意見です。

 木村花さんも、三浦春馬さんもそして竹内結子さんも、元彼、元カノ、元旦那さんへの中傷が続いています。<思ったこと、感じたこと>を単に述べているだけだと思っている人があまりにも多く、本人たちにとっては無責任な発信で済みますが、当事者、真の関係者にとっては一生の問題であり、過ぎてしまえば終わること、ではないのです。関係ない人が踏み込むというおごった意識がネット風評を生むことを、今簡単にスマホやパソコンなどでSNSを使用している人たち全員が認識しないと、いずれ、ネットによって我が身をも否定、抹殺される世の中になってしまうでしょう。

 発信する側にも、受信する側にもこうした認識が欠落しないように、新たな被害者が生まれないように、SNSというツールは何の為にあるのかと考えたいものです。


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