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長瀞さんファンアートのポリコレ的トラブルから思うこと

人種差別的な意図があって書いた文章ではないのですが、思いのほかセンシティブな話題となってしまいました。気分を害される方がいたらご容赦ください。


長瀞さんホワイトウォッシング騒動

「Nagataro」ってなんだ?

Xのおすすめ欄を見ていたら、目に入った投稿です。

写真自体は2013年にちょっとバズったやつですね。ただ「Nagataro」ってなんだ?江戸時代に漂流してアメリカ船にでも救出された漁民とかそういうやつか?といぶかしんだのですが、どうも「イジらないで、長瀞さん」に出てくる主人公長瀞さんのことだそうです。

このポストには結構めんどくさい経緯があって、ネット上でも一つの記事できれいにまとまっているものが見つからず、下記に理解の及ぶ限り書いてみます。

「長瀞さん」アニメの英語吹き替え版配信

「イジらないで、長瀞さん」は活発な女子の長瀞早瀬と、おとなしい性格の先輩男子(美術部)とのラブコメ漫画で、2021年と2023年の2期にわたりアニメ化されたヒット作です。長瀞さんは水泳部の助っ人などをやっている関係で、水着に隠れた部分以外は日焼けして褐色の肌をしているという設定です。

英語圏でも長瀞さんは人気があるようです。Wikipediaの英語版長瀞さんのページは、日本語版よりもあらすじ解説が充実しています。
よく見ると怒濤のように現れるのが「Senpai」の単語です。外国人には「先輩」の概念が受けているようで、Wikipediaの「先輩」記事は日本語を除いて15か国語のバージョンが存在しています(しかもスペイン語とカタロニア語では「秀逸な記事」に選出されている…)。
「Senpai」パワーかどうかはわからないのですが、2022年にはアニメの英語吹き替え版が配信されています。

ここで、長瀞さん役を務めたのは、Kimberley Anne Campbellという黒人の声優さんでした。ここで、きわめてごく一部のファン?が、

  • 長瀞さんの肌が褐色である

  • 長瀞さんの声優が黒人である

という二つの事実から、「長瀞さんは黒人キャラである」と勘違いしてしまったそうです。日本人の感覚からすると多少日焼けしたくらいでは黒人に見えないだろうと思うのですが、とくにアメリカなどではちょっとでも肌が黒かったりすると黒人に分類されることもあるそうなのです。

長瀞さんファンアートがプチ炎上

長瀞さんが黒人だと思われること自体には特に実害はなかったのかもしれません。しかし、長瀞さんのファンアートで長瀞さんの肌を白っぽく描いたところ、whitewashされた!という物言いがつくという事態が発生しました。

ここで勘違いしてはならないのは、本気で長瀞さんを黒人だと勘違いした人は極めて少数派で、多くはjokeとして受け取っているということです。ただ、この物言いをきっかけに、長瀞さんが黒人であるというようなミームが一部で発生したようなのです。

Nagataroのポストについて

ここでやっと冒頭の「Nagataro」ポストに戻ります(もっかい貼り付けます)。

このポストは、長瀞さんのような日焼けキャラが実在したらこんな感じだろう、ということで貼り付けられたというのが真相なのでした。
なお、ネット上にはなぜか長瀞=「Nagatoro」を「Nagataro」とするtypoが非常に多く見られました。もしかしたら「taro」の部分が「太郎」っぽくて、日本人の名前っぽいとか勘違いされている?のかもしれませんが…。

どれだけ黒人の血が混ざると「黒人」なのか?

改めて長瀞さんの漫画とかアニメをじっくり見てみても、やっぱり日本生まれ日本育ちである私には、長瀞さんを「黒人」と勘違いするというのは少し難しいような気もしました。ここで2つ思い出したことがあるので、つらつらと書いてみたいと思います。

フォークナー「八月の光」のジョー・クリスマス

「八月の光」はアメリカの作家ウィリアム・フォークナーが1932年に発表した小説です。

舞台は(たぶん)1920年代のアメリカ南部ミシシッピ州にある架空の町ジェファソン。
登場人物の一人、ジョー・クリスマスは見た目は完全な白人なのですが、自らの血に黒人の血が混ざっているのではないかという疑いを持っています。当時のアメリカ南部は黒人差別が苛烈であり、ジョーも黒人であること=一人前の男ではないという人種差別的な価値観をもちつつも、自らが非白人である可能性を強く恐れる人物です。
日本人である私にとっては、見た目が白人なら白人ではないかと思うのですが、ジョーにとってはそうではなく、しかも他の登場人物の言動からも、黒人の血が混ざっている=黒人=さげすまれるべき存在という価値観が一般的であったことがうかがえます。

「あたし知りませんでした。考えてもみなかったんです。もちろん、子供たちがあの子を黒ん坊って呼んでたのは知ってたけれど、それはべつに意味のないこととは思ってましたし――」

6章:クリスマスが預けられていた孤児院で、彼に黒人の血が混ざっていることが判明する場面

「やつはどう見ても黒ん坊とは見えんよ。それでもやつの中には黒ん坊の血が混じってるにちがいないな。まるでやつは男が結婚しに出かけるみたいにのこのこ出てきて捕まるんだからな」

15章:クリスマスが犯した殺人により逮捕されたのちの農夫たちの話

つまりは、すくなくとも20世紀初期のアメリカ南部においては、「少しでも黒人の血が混ざっているものは、黒人に見えなかったとしても黒人として分類される」という共通認識があったものと思われます。

「南米諸王国紀行」の記載について

17・18世紀大旅行記叢書のうちの「南米諸王国紀行」は、18世紀にスペイン国王の認可のもとに送られた、フランスの科学者たちの調査団の随員としてスペイン人のホルヘ・フワンとアントニオ・デ・ウリョーアがスペインの植民地であった南米諸国を訪れた際の記録です。

ここでは当時のカルタヘーナ市(現コロンビア)の人種についての考え方について、下記のように記されています。(ちょっと長いですが)

人種に関して次にあげるべきは、白人と黒人の混血から生じるもので、まず最初はわれわれに馴染みの、それゆえほとんど説明を要しないムラートである。これに続くのがムラートと白人の結合によるテルセロンで、これの肌の色は白人にずっと近づくが、それでもその出自を隠蔽できるほどではない。この次に来るのがクワルテロンで、言うまでもなく、テルセロンと白人の混血である。そして、クワルテロンと白人との間に生まれるのがキンテロンであるが、これが黒人の血を引いているとみなされる最後の代である。というのも、この段階になると、肌の色も相貌もまったく白人と区別がつかなくなるからである。それどころか、しばしばほかならぬスペイン人よりも白いことがある。白人とキンテロンの間に生まれた世代にはもはや特別名などなく、彼らはエスパニョル(スペイン人)と呼ばれる。

第1の書第4章 カルタヘーナの住民、彼らの気質、身分階層、起源、および、彼らの風習

つまりは、ムラートは1/2、テルセロンが1/4、クワルテロンが1/8、キンテロンが1/16の黒人の血を引き継いでいることとなり、黒人の血が1/32にまで薄まった段階で白人と同等とみなされるということになります。
最初の白人を第一世代として、その白人と黒人の間に生まれた子を第二世代としたら、第二世代から生まれた子が白人に戻るのには最低でも第六世代までかかります。
ジョー・クリスマスが見た目が完全な白人であるにもかかわらず自分に流れる微量の黒人の血を恐れていたのに対して、18世紀のカルタヘーナでは見た目さえ白人であればその者は白人とみなされるといえます。
しかし、逆から言えば、見た目が完全に白人でない限りは黒人扱いということで、私にとってはかなり厳しい基準にも思えます。

日本育ちには理解が難しい人種差別の機微

手元にあった本を2冊見てみて、少なくとも見た目が少しでも白人と異なっていたら黒人とみなされてしまうということは、日焼けした長瀞さんが黒人とみなされることは十分にあり得ることだと思いました。

日本では、かつて「ヤマンバ」スタイルが流行ったり、もっと前には「トースト娘」とかいう言葉がポジティブに使われるなど、必ずしも肌の色が黒い=悪いとは受け止められなかったように思います。(ただし、時代、状況次第では肌の色が黒い=悪いと受け止められることも多々ありましたが)

だからといって日本には人種差別がないなんて言うつもりはないのですが、とくにアメリカの人種差別は極めて根深く、日本の差別とは異質だというのを、最近漫画を読んで思ったりもしました。

鍋に弾丸を受けながら 第28話
鍋に弾丸を受けながら 第28話

これは、「鍋に弾丸を受けながら」という漫画からの抜粋です。(漫画の内容に立ち入ると長くなるので割愛しますが、とても面白いので多くの人が読むとよいと思います。)

黒人はかつては人ではなく、財産、モノとしか認識されなかった時代があり、その歴史的トラウマはまだ残り続けています。日本人が気軽に長瀞さんを日焼けさせたり、または日焼けを薄くして描写したりするのに対して、西洋では肌の色に過剰に敏感なのが批判されたりもしますが、過去の経緯を鑑みるにある程度はやむを得ないのかもしれないと思ったりもします。難しいところですが。

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