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目的はないけれど 人と会う

15年ぶりくらいに、いとこに会いました。
別に仲違いしていた訳ではないのですが、わざわざ会うほどの理由もなく、気が付いたら長い時間が過ぎていて、その時間が15年も重なっていたんですよね。

今回も、会うほどの理由はなかったのですが、それぞれ、同じくらいの時期にイナカに行こうと予定していて、それを知ったいとこが、私のタイミングに合わせてくれたのです。

へんな言い方ですけど、年をとったんだなぁ、と思ったんですよね。いい意味で。若いときは、わざわざ会うほどの理由は、確かになかったんです。もともと、年もそんなに近くないし、年に2回くらい会うくらいの関係性だから、共通の話題も大してないし。

でも、お互いに人生を重ねて、親になり、自分たちの両親も同じく年を重ねてきた。そうすると、会うことに理由なんていらなくなってきた。会える時に会おう、と、ごく自然に気持ちが変わっていったんだと思うんです。気持ちが変わった、と気づかないくらい自然に。

家族や親戚と会うことに限らず、自分がもっともっと成長しなくちゃいけない、って思っていた頃って、目の前に「成長したい」という強い欲求があって、その目的にかなうような行動を選んでいた気がします。誰かに会うとか、どこかに行くとか、何かをするとか、って言う時に、「なんとなく」では、自分が許せなくて、何かしらの意味付けをしていた。

その時期は、それが必要だったんだと思うんです。昨今、若い人たちが「タイムパフォーマンス(タイパ)」ばかり気にする傾向を、大人たちが懐疑的な表現で語ることもあるけれど、何のことはない、そういう言葉を使わなかっただけで、私たちも、そうだったと思います。

でも、年を重ねてくるにつれて、何か目の前の分かりやすい目的だけが大切じゃないかも、ってことに、なんとなく気づいてきた気がします。
人と会うのに、必要かどうかなんてことはどうでも良くて。接点は多くなかったかもしれないけれど、お互いの親を通して、元気にしているかな、と、それぞれの人生を、何となく気にかけてきた同士です。時に会い、元気にしてる?って声をかけあう。そういう「一見意味のなさそうなこと」って、案外わるくないと思うんですよね。

年を重ねるってことは、自分が生きている時間を、少し俯瞰で見られるようになることなのかもしれません。それって結構いいよね、と思った、いとことの再会でした。
ま、共通の話題がなくて、ちっとも話が盛り上がらなかったのは相変わらずなんですけどね。

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