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楽しいから、って理由だけで、子育てする訳じゃない

〈(将来、子どもを育てたいという選択を促すために)親になる前の若者に子育ての楽しさをもっと伝えよう〉という趣旨の文章を読みながら、いつも、何かが、引っかかるなるなぁ、って思っていた。

いや、「子育ては大変だ!!!」とか「もっと覚悟が必要だ!!!」などと言いたい訳ではない。むしろ私は、大人たちに、子どもと向き合う生活を楽しむための考え方や方法をお伝えすることを仕事にしている訳だし。

ただ、そんな私だって、「別に楽しいから、っていう理由だけで、子育てしてる訳じゃないよね」とは思うのだ。

「子育て」という言葉

ところで私は、「子育て」という言葉をなるべく使わないようにしている。
「子育て」という言葉は、親から子どもへの一方方向の矢印を連想してしまうよなぁ、と感じたから。(個人の見解です。)親が、子を〈育ててあげる〉というような関係性。

でも私は、子どもは自分のチカラで育ち、大人の役割は育ちをサポートすることだと考えている。また、大人だって、子どもに出会えたおかげで、人として大いに成長する。矢印は双方向。

だから、「子育て」って言いたい時には、〈親子の育ち合い〉とか、〈子どもと向き合う〉などと、なるべく言い換えている。(言い換えると、分かりにくい文章になってしまうこともあり、もっと文章力を磨かねば、と思うのだけれど・・・。)

先の言葉を言い換えると、こうなる。

子どもと向き合うことが「楽しい」という理由だけで、日々子どもと向き合っている訳ではない。

子どもと共に生きたいと思った理由は何だったろう

子どもと向き合うことが「楽しい」という理由だけで、日々子どもと向き合っている訳ではない。
と書いた。

では、子どもと共に生きたいと思った心の根っこにある気持ちは何だろう。

その根っこは、きっと1人1人違うのだろうけれど、私にとっては

大切な存在があることの幸せ

ではないかな、と思った。

自分にとって、自分以外の、でも自分と同じくらい大切な存在がいる。それは、自分が生きていることの意味が増えることのような気がする。
負担かもしれないし、責任が大きすぎるかもしれないし、プレッシャーに感じるかもしれない・・・でも、幸せだ。

何より、大切にしたいと思う存在があり、その誰かのことを思って行動することで、自分自身が生かされている。

私たちは誰かの役に立ちながら生かされている

考えてみれば、〈誰かを大切に思い行動することで自分が生かされる〉と言う感覚は、親子の間だけで生まれるものではない。仕事でも同じ。相手のことを大切に思って行動したことが、その相手の役に立ち、自分という存在が生かされる。(その〈相手〉が、具体的な顔が見える人の場合もあれば、もっと幅広い顧客やファンという場合もあるだろうけれど。)

ここで〈役に立つ〉というのは、直接的なことだけではなく、廻りめぐって役に立つことや、概念的な意味で誰かを助けることも全部含まれると思う。
スポーツ選手の姿を見て頑張ろうって思ったり、自分の発した言葉が誰かの心に届いたり、子どもの姿を見て嬉しい気持ちになったり・・・ってことも、どれも、誰かが誰かの役に立っている。

きっと私たちは、気づかないうちに、お互いに、誰かのお役に立ち、生かし生かされて、1日1日を生きているんだと思う。

共に生きるということ

そんな風に、お互いに生かし生かされる関係性の中で、やっぱり自分の心に近いところにいる存在が特別に大切だというのも、至極当たり前のことで。

人生の一番最初の、誰かに守られないと生きていけない小さな小さな命の時に出会い、あぁこの小さな命を守っていこう、と思った子どもに対して、〈大切にしたい存在〉という感情を抱くのも、ごく自然なことだろうと思う。
(とはいえ、親子だからって、自動的に〈大切な存在〉になるわけじゃないし、生物学的な親子に限らず深い絆でお互いに〈大切な存在〉になることだってできるのだろうなぁ。)

自分の大切な存在たちに感謝して、〈大切な存在があることの幸せ〉をかみしめようと思うのでした。

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