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何が起こるか分かっていないからこそ、やれちゃう

〈何が起こるか分かっていないからこそ、やれちゃう〉ってことがある。

まぁ、何とかなるだろう、とやり始めてみて、やり始めたら思いのほか困難なことが多々あるんだけれど、どうにかこうにか乗り越えてから、「あ~、こんなに大変だって分かっていたら、やらなかったのに」って思うこと、いくつも思い当たる。

登ろうとする山は霧がかかっていて、どれくらい高いのか、険しいのか、よく分からないけれど、まぁ登ってみるか、と、目の前の1歩、1歩に集中しているうちに、頂上にたどり着く。登ってから後ろを振り返ってみて、その道のりに驚く。振り返ってみれば、えらく遠回りをしているかもしれない。途中の道で転んだり、怪我したりしたかもしれない。それでも「こういうものなんだな」と思って登るのが1つ目の山。

問題は、2つ目以降。あの時の大変さ、険しさ、困難を思い出すと、二の足を踏んでしまう。1つ目の山の時は、こんなところが大変だったから、その対策をしてから行こう、なんて考え始めると、準備ばかりに時間がかかり、いつまでも出発できない。

〈若いうちは挑戦できる〉って、こういうことなのかな、と思う。経験を重ねると、自分が今から登ろうとしている山には、どんな困難があるのか、予測できるようになっていく。大変さも想定できる。想定できないトラブルがあることも分かっている。自分の今の実力で、充分安全に乗り越えられるか、と考え始めると、なかなか挑戦なんてできない。

そこを、えいや、と行けてしまうことが「知らないことの強み」なんだと思う。

そう考えると、最近は、情報が多すぎる。まだ山に登ったこともない人でも「山を登るとこんな困難があるらしい」「だから、コレとコレを装備して、こういう能力を身に付けてからじゃないと、登ったら危険だ」「地図も持っていけ」「失敗しないようにもっと準備が必要だ」と、誰かの伝聞の情報を簡単に入手することができるようになった。

そして、出かけられない。

いいのにね、失敗しても、途中で引き返しても、遠回りしても、ひとまず、登り始めてみれば、それだけで、違う世界が広がっているのに。

そして、私の仕事に近いところで言えば、〈情報を得てしまったために、むしろ身動きが取れなくなっている〉という例の1つとして、親になること、があるように感じる。

就職活動中の学生のうち、特に女性たちが、産休や育休の期間や社内取得率、出産復帰後のキャリアについて、熱心に知ろうとしている、という記事を読んだことがある。自分の人生について、先まで想定して、間違いのない決断を下そうとしている。実際、〈自分の人生を先まで想定できる〉と誤解するほど、情報の量は充分にある。オフィシャルなものから、個人のつぶやきまで。(もっとも、自分の未来なんて想定できっこないと、私は思っているのだが。)

そうやって想定した「母になる」「父になる」という山は、登りたいと思える山だろうか。大変かもしれないけれど登る価値があると思えるだろうか。個人のつぶやきは、愚痴も多いし、大変なことが強調されている場合もあるかもしれない。(誰かの人生の参考になろうと思って書いている訳ではないので、それは当然。)事前に得られる情報が、何かを決断する人の背中を押さない。

事前に情報を集めるのは、本来はいいことだ。父になること、母になることも、生まれてくる子どもの人生に大きく関わることだから、慎重に決断するのは当然だ。でも、あんまり情報が増えすぎると、かえって何もできなくなる気がする。

人生なんて、想定できないもの。想定できないことが起こるから、面白い。だから、歩き出すために必要なだけの情報を集めたら、あとは、想定外に立ち向かうつもりで、歩き始めたらいいんだと思う。

想定外は想定外なんだから、最初から備えていなくてもいい。
それよりも、何が起こるか分からないからこそ、何かをやってみるチャンスだと思うよ。

やってみよ?

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