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あそびに結果を求めない

保護者の方に向けて、「子どもにとって、遊びにはどんな良いことがあるかを伝える講座をお願いしたい」と頼まれて、準備をしていました。

ここ数年、あそびが市民権を得るようになった、と感じます。「子どもにとって、遊びと学びは同じこと」「子どもは、遊びの中から多くのことを学ぶ」などと言う考え方が、広がってきていると思います。

少し前までは、「遊んでばっかりいないで、宿題しなさい」と怒れられていました。のび太くんとか、カツオくんとか。でも最近は、そうじゃないらしい。

学びにつながるように、「ちゃんと遊びなさい」、って、言うんですよね。

これって、どうなんでしょうか。確かに「あそび」の大切さに気付く大人が増えたのは嬉しいことです。でも今までは「あそび」は子どもの領分だった。どんな風に遊んでも良かったし、遊ばなくても良かった。人間関係だって、大人の目がないからこそ、自分たちで関係性を築いてきた。(小さい子を仲間に入れてあげる方法とかね。)

でも、あそびが大切で、学びにつながるからと言って、そこに大人が介入して「正しく遊ばせよう」としたら、それは、その途端に「あそび」ではなくなってしまう気がします。大人たちに(大人に限らず、遊ぶ本人ではない人に)コントロールされてしまったら、「あそび」の持つ魅力がぐっと減ってしまいます。

そんなことをお話しようと準備をしながら、大切なことを忘れていたことに気づきました。

子どもにとって、あそびとまなびは不可分だよね、あそびもとても大切なもので、そのために、子どもたちの領分を守ることは必要だと・・・と伝えつつ、そもそも「あそび」の持っていた無駄とか、余裕とか、余白とか、そういう意味合いを忘れていた、と気づいたのです。

何も学ばない、ただ楽しいから遊ぶ。
ただのんびりしたいから、のんびりする。
ぼーっとしたいから、ぼーっとする。
別に何もしたくないから、何もしない。

そういう「あそび」は、とても大切なことです。
休息も余白も必要。
「あそび」には、機械などのゆとり、という意味もありましたよね。

あわてて、講演の最後に、まなびや効果につながらなくても、ただ好きだからやる、というあそびもあるし、それもとても大切なことだよね、と付け加えることにしたのです。

何にでも効果や成果を求めたら、やっぱりちょっと窮屈ですよね。

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