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人に読まれる覚悟があるか

タレントさんが、ご自身のプライベートについて語っている話を、何気なく見ていた。お子さんの習い事の話。お金がかかりすぎるので、早々にやめたんだよね、みたいな、ほんっとに他愛のない話。

他愛のない話ではあるものの、これは、その習い事の界隈の人たちにとっては、結構な風評被害だろうなぁ、と思った。ものすごく習いたい、と思う親子にとっては、何の影響もないだろう。でも、何となく知っている、というくらいの保護者にとっては、「あぁ、やっぱり、すごくお金がかかるんだわ」という印象だけが残って、選択肢からはずれたかもしれない。

でも。
だから、ってけしからん、とか、そういう話はやめるべきだ、っていう話でもないよなぁ。
どうなんだろう。メディアに出て、自分を覚えてもらい、自分の・・・おしゃべりやお芝居や歌やらを見てもらって、それを仕事としている人にとっては、自分のごく個人的な体験を話したら誰かに迷惑をかけるかもしれない、なんてことを気にしていたら、何を話していいのか分からなくなりそうだ。
誰にも迷惑をかけない、当たり障りのない話だけでは、たぶん、面白くないんだと思う。えーって言わせたり、笑わせたりするために、あの人たちも、ぎりぎりのところで自分のプライベートを削っているのかもしれない。

だいたい、かなしいかな、人って、ちょっとだけ誰かを揶揄したり、ネタにしたり、貶めたりする話って、好きなんだよね。だから、ひどく傷つけない程度に、ちょっと毒のある話をすることもあるんだろう。その加減を間違えて炎上することもあるのかもしれないけれど、もしかしたら、そんなことも覚悟の上なのかもしれない。

SNSがこんなにも普及して、誰もが発信者になれるようになった。そして、誰にどれくらい見られたか、ということが、はっきり分かるようになり、他者と比べられるようになった。
多くの人の目に留まるために、特別な工夫をしたり、目を惹くような記事を書かなくてはいけないのかと、否が応でも意識させられる。

発信者である私たちは、誰もがタレントさんのように「発信するからには、いつ炎上してもいい覚悟を持って、話題にのぼるようなぎりぎりを攻めた記事を書く」ことが必要なのだろうか。

私は、無理だ。
覚悟を持って、炎上ぎりぎりの記事を書く人は、きっといるのだと思うけれど、私には無理だ。
炎上してもいいから、私は書くべき記事を書く、というような覚悟もない。自分の身を削ってまで書きたいほどのメッセージもない。
だからやらない。

ただ、子どもと向き合う真っ只中にいる保護者の方に観てもらいたいという想いはある。そして、その人たちが見た時に、役立つもの・励まされるもの・読んでよかったと思われるものを書こうという、そういう覚悟ならある。

それも覚悟だな。
うそは書かない。
煽らない。
見てもいない子どものことを決めつけない。
子どもはみんなこういうもの、と断定しない。
子どもの育ちや発達には個人差があることを書く。
たった1つの何か分かりやすい正解なんてないよ、と書く。
私のやり方さえ信じていれば何でもうまくいく、なんて書かない。
子どもはこうじゃなきゃいけない、なんて言わない。
親はこうしなくちゃいけない、なんて言わない。

私は自分の知名度が収入に直結するような仕事をしている訳ではないから、炎上覚悟で、話題になるぎりぎりの表現をねらったりはしない。そんな覚悟はいらない。
でも、自分の記事を読む人の中には、子どもと向き合う大人たちがいると思っている。その人たちに対して、いつも真っ正面から向き合う記事を書こうと思うことも、また覚悟であると思う。

大げさかもしれないけれど、大げさでもいい。
人に読まれる覚悟を持っていたい。

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