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「適職診断」みたいなのって、ほんとに、良くないと思う

キッザニアの仕事をしていた頃、「子どもたちの適職診断をやったらいいと思うんだよね」と言われることが、時折あった。言われる、というのは、思いつき、雑談、ちょっと本気の相談、提案、企画の持ち込み、とか、色々な段階があるけれど、そのへんは、ぼかして話を進める。

「子どもたちの適職診断」は、私の在職中は実現していないけれど、その話を聴きながら、いつも、「それは、子どもたちにとっての影響が大きすぎるなぁ」と身構えていた。

あなたは「医師タイプです」とか「アナウンサータイプです」とか「警察官タイプです」とか、大人たちは、ちょっと遊び半分のつもりで診断結果を伝えるかもしれない。でも、子どもたちには強いメッセージとして伝わるだろう。そして、ある種の自己暗示というか、「自分はこういうタイプ」って思いこんでしまう人もいるだろう。

適職診断だけではない。ある種の性格診断にも近いような「タイプ診断」的なものが、世の中には沢山ある。遊びだよね、って、その場で楽しんで、忘れてしまうくらいならいいけれど、確からしく見えるものもある。

私たちは、日常会話の中で「マジメ」「優しい」「勇気がある」「正義感が強い」「感受性が強い」などと、パーソナリティに関することを気軽にクチにする。「正義感が強いから、警察官が向いているわね」などと誉め言葉くらいの気持ちで何気なく言うこともあるだろう。でも、そういう性格的なものは、自分の置かれている環境とか、周りの人との関係性の中で変わることも多い。自分は変わっていないのに、所属するコミュニティによって相対的な見え方が変わることもある。

だから「あなたは、こういう人だよね」って、あんまり周りの人が決めつけない方がいいと思っている。だって、周りの人から思われているイメージを打ち破るのって、勇気がいるから。
今は「おとなしい人」も、自分のカラを破って賑やかに過ごそう、って思う日がくるかもしれない。今は「好奇心旺盛な人」も、1つのことに夢中になって、他のことに見向きもしなくなる時期もあるかもしれない。
その時に、新しい自分になるぞ、って大げさな決意をする必要はない。身体が成長するように、心も成長する。成長の過程で、人から見られる「性格」が変わることもあるだろう。そこに決意はいらない。自分の心に無理をすることなく、気づいたら変わっていたね、っていうくらいがいい。

だから、子どもの性格とか、こういうタイプ、こういうことに向いている・・・みたいなことを、大人が面白半分に言うのは、無責任だな、って思う。もしかしたら、何かの根拠に基づいた診断なのかもしれないが、そうだとしたら、余計に安直に診断してはいけないはず。本人や保護者への伝え方やフォローまで考える必要があるだろう。

また、何らかの根拠を持つタイプ分けは、子どもだけではなく、保護者の方も「思いこんでしまう」というリスクがある。
どんなに根拠があったとしても、結局は、いくつかの類型に分けたタイプに過ぎない。こういう面もあるよね、などと、参考程度に扱うのならいいけれど、信じ込みすぎて、我が子を「こういうタイプ」と思いこみすぎても、あまりいいことはないなぁ。子どもは変わる。大人だけが、その場に立ち止まるのではなく、子どもの変化を穏やかに受け止められるといい。

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また、今日の話の本題ではないけれど、そもそも「適職診断」なんてものが、意味がないよね、とも思っている。

下記の記事でも書いたけれど、「医師に向いている人」がいるのではなく、「自分の持ち味を医師と言う職業に生かしている」ということだと思うんだよね。「●●という職業に向いている人」というのも、個々の仕事をあまりに紋切り型に考え過ぎだと思う。どんな仕事にも、複数の側面があり、無数のアプローチがあるはずなのに。

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人となりは、変わる。だからこそ、子どもたちを「こんなタイプ」って安易に決めつけない方がいい。人をタイプに分けて理解しようと努力するくらいなら、1人1人とカスタマイズで向き合った方が、ずっといい。

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