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ブランコを ずっとずっと使って 何がいけないの?

ブランコが2台。ブランコに乗りたい子どもは4人。先にブランコに到達した子どもが2人先に乗り、後の2人は順番を待っている。

どうする?

ついつい数を数えてしまう大人が、多いんじゃないかと思う。「それじゃあ、みんなブランコに乗りたいから、お友達にも代わってあげようね。20数えたら交代ね」「いーち、にーぃ、さーん、しーぃ・・・」
待っている子どもたち、みんなで、声を揃えて数えるかもしれない。20数えたら、交代しなくちゃいけない。もっともっと乗っていたかったとしても。

もし、「もっと乗りたい」って言えば「みんな乗りたいんだから交代しなくちゃいけないよ」「順番が守れない人は、もうブランコに乗れないよ」と圧をかける大人もいる。

それが、「教育」だと思われているところがある。

他の人の気持ちも考えよう。独り占めしてはいけない。お友達にもゆずってあげよう。不公平にならないように、みんな同じだけ乗るようにしよう。ついでに数も数えられるようになっちゃうね。・・・ってところだろうか。

でも、私の信頼している先生は、「それは違うと思うよ」と言う。

大人が勝手に決めた回数を守るのではなくて、その子自身が充分にブランコに乗り、満足してから、次の人に変わればいいんじゃない、って。

でも、よくよく考えれば本当にそう。
大人が突然「じゃあ、20回」ってルールを持ち出して、それに従わせることを「お約束を守る」とか「お友達の気持ちを考える」って言われたって、子どもたちも困ってしまうよね。「お友達の気持ちを考える」って言うんなら、先生だってあたしの気持ちを考えてよ、って思っているかもしれない。

あそびの始まりと終わりは、遊ぶ人が自分で決めたい。ブランコをどんな風に使いたいのかは1人1人違う。誰もが画一的に、前後にゆらゆらと20回揺れたい訳ではない。色々な漕ぎ方をためしている人。色々な姿勢をためしている人。どこまで高くなるか挑戦している人。そう言えば、私は子どもの頃、ブランコに乗ったらわざと目をつぶって、目をつぶっているのに太陽の光を感じることを面白いなぁと思っていたなぁ。

そんな風に楽しみ方は1人1人違うのに、「1人●回」って決められても、子どもだって全く納得がいかないだろう。楽しむためにブランコに乗っているのに、ちっとも楽しめない。

他の人が待っているのに、自分が遊びたいからと1人で使い続けていたら、わがままな子どもに育つんじゃないか、って心配する大人もいるのかもしれない。

でも、心の発達には順序がある。自分が大事にされている、満たされている、と感じられるからこそ、他の人にも意識を向けられるようになる。
だいたい、「他の人の気持ち」を想像できるためには、まず「自分の気持ち」に目を向けなくちゃいけない。「もっと遊びたい」「もうやり切った満足」などの、自分の気持ちが大事にされないままの状態で、「他の人の気持ち」が想像できるはずがない。

大人が普段から「じゃあ20回ね」と言っていれば、子どもたちもその方法を学習する。大人がいなくても、「●回ずつ」とルールを決めて、みんなが同じ回数ずつ乗ることを正義だと思うようになる。それよりもたくさんブランコに乗っていた子のことを「ずるい」と言う。

そして、そんな風に子どもに関わってきた大人に限って、「最近の若者/子どもは、指示待ちで自分の意見がない」とか「画一的だ」とか「言われたことだけやればいいと思っている」とか言い出す。違うよ、子どもたちに指示を出して、従わせて、守らなかったら執拗に問い詰めたりしてきたのは、大人たちの方だよ。

ブランコのことは、分かりやすい1つの例だけれど、それに限らず、私たちは子どもに対して、「完成した姿」を求めることを、教育だと勘違いしていないだろうか。

子どもは1人1人違う。感じ方も違う。遊び方も違う。気持ちの表現の方法も違うし、同じことに直面した時の受け止め方だって違う。1人1人違う「心」を持つ子どもたちの、心の成長に寄り添うことの方が、ずっと教育の在り様としては好きだな、と私は思う。

ブランコにずっとずっと使っていても、何も悪いことはないと思う。その子は、ちゃんと、自分の気持ちを大切にできている。

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