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いわゆる若者言葉というもの

いわゆる若者言葉というものは、「程度が甚だしいこと」を表現する言葉が多いなぁ、と感じる。
今も昔も、友達同士の会話というのは、とにかく、大げさに伝えたくなるものなのだろう。

でも、そういう言葉たちは、「とにかく、ものすごい」というだけの意味しか持たないので、陳腐化しやすい。〈チョベリバ〉なんて、恥ずかしくてクチにも出せない。

あるいは、驚きがなくなってしまえば、本来の「とにかく、ものすごい」という目的を果たさなくなってしまう。〈チョー〉とか〈めっちゃ〉なんてのは、もう、「すこし強調」くらいのニュアンスしかなくなってしまった。(ドラゴンボールのヤムチャの戦闘力みたい。←この喩えは正しいのか?)

だから、少しでも、目新しい言葉で、「とにかく、程度が甚だしいんだ」ということを伝えようと、どんどん新しい表現を生み出して、大げさに大げさになるんだろうなぁ、と思う。強調することが目的なので、そんなに上品とは言えない言葉選びになることも多い。〈バリ〉とか〈バチくそ〉とか聞いたことあるぞ。褒めるときにさえ〈くっそ面白い〉とか言ってた。自由だな。
まぁ、そのあたりが、若者言葉が、大人たちに眉をひそめられる理由の1つなのだろう。

ただ、大げさに強調する表現っていうのは、どうやら若者の専売特許ではないらしい。大げさな表現として思い浮かぶ言い回しの中には、とてもとても古いものもある。

そのうちの1つが〈白髪三千丈〉。李白である。
言葉の意味を調べると、「憂いのために白髪が長く伸びた」という本来の意味だけではなく「大げさに誇張した表現のたとえ」という説明もある。
三千丈は、9,000メートル。さすがに、ラプンツェルでも、そんなには伸びない。誇張にもほどがある。けれども、その容赦のなさがいい。どうせ誇張するんだったら、「いや、そりゃ言いすぎやろ?」と突っ込まれるくらいの誇張の方がいい。リズムもいい。

もう1つは〈乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。〉こちらは伊勢物語。
都を離れて、東に下っていた在原業平一行。都に残してきた妻を思う歌に感動して涙を流し、その涙で「乾飯」がふやけてしまった、というくだり。
「乾飯」は、お米を一度炊いたものを乾燥させた保存食。旅の時に携帯し、そのままボリボリと食べることもできるし、水分を加えればお粥のようにも食べられる、というもの(らしい)。その「乾飯」がふやけるほど泣いた、と言うのだから、まぁ、かなり涙を流したことになる。
(そう言えば、田辺聖子氏が、平安時代の男性はよく泣く、と、何かで書いてはったなぁ。)

現在、「乾飯」的なものは、災害用の保存食として目にすることができる。毎年の防災訓練後、子どもが学校から持ち帰ってきたアルファ米を頂く時に「かなり、水を入れるよね?」と思いながら、在原業平さんを思い出す。

そんな訳で、若者に限らず、おじさんも、おじいさんも、みんな、何とかして「とにかく、ものすごいだー」ということを伝えてやろうと、あれこれと表現を工夫しているんだろう。その一生懸命さが、なんだか、涙ぐましくていいな、と思える。どうかな?

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