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追悼・鮎川誠さん 好きを胸に生きぬいた永遠のロックンローラー

「ロックンロール!」、言葉の響きだけで。胸がワクワクして、感性がピカピカに光る。「R&B(ロックンロール)は、生まれてから50年になるけど、いつだってフレッシュやし、ピュアやし、どんなときでも俺に勇気をくれる。

『’60sロック自伝』鮎川誠(CDジャーナルムック/音楽出版社)


鮎川誠『’60sロック自伝』のイントロダクション「ロックン・ロールとの遭遇」の書き出しだ。
この文章を、そっくりそのまま他界された鮎川さんに贈りたい。

たちまちロックンロールが美しく目の前に拡がっていく。
俺はロックンロールだぜ、なんてダサいことは決して言わない。そこが嘘いつわりなくて、かっこよかった。

自伝といえば、どこそこに生まれて、どんな子ども時代を過ごして・・・というのが定番だが、この本は違う。250ページあまり、音楽の話しかしていない。
初めて聴いた洋楽がレイ・チャールズでみたいに鮎川さんの音楽体験が、そのまま自分史になっているのだが、とにかく情報量がものすごい。
いま適当に開いてみた1ページに出てくる曲名だけで、10曲もあった。
最初は面食らったものの、今となってはわかる。これが鮎川誠そのものだったのだろう。

『’60sロック自伝』(音楽出版社)

永遠から目がさめて

2023年1月29日に訃報を耳にしてから、2月4日の葬儀まで、どうにも身体がふわふわしていた。
私なんかより近かった方は数え切れないはずだ。それでも、心許ない感覚が続いた。

それはおそらく夢から覚めたからだった。
“永遠”なんてないことに気づいてしまったからだった。

鮎川さんのステージは、黒いレスポールをアンプにつないだ瞬間から、チューニングが狂おうと止まらなかった。いつも永遠だった。いつも、いつだってライブに行けば、全開のその人に会える。勝手にそう思い込んでいた。

余命の告知が昨年5月というのも身につまされるものがあった。
5月といえば日比谷野音でのブルース・カーニバルが開かれた月。29日だった。あのとき、すでに鮎川さんはこれが最後の野音になるかもしれない。そう考えていたのかもしれない。

夏のような青空だった。フライヤーにも書かせてもらったが、10年ぶりに帰って来たブルース・カーニバルに私はなみなみならぬ思いで臨んでいた。

鮎川さんは三宅伸治&レッドロックスのステージにゲストで出演し、ジョン・リー・フッカーの<Boom Boom>、シーナ&ロケッツの<レモンティ->、そして三宅さんのステージではおなじみの清志郎の<Jump>にも加わった。

やっぱり鮎川さんだった。きっとこれからも野音に、ステージに立ち続けると信じて疑わなかっただけに、やりきれなかった。

今そこにあるものを見る生き方


鮎川さんが表裏なく、人と相対していらしたことは、皆さん口をそろえる。少なくともダメだと頭ごなしに否定した話は耳にしない。

否定しない生き方という点では、「スリー・キングス」についてのこの発言を思い出す。
「スリー・キングス」とは、友部正人、鮎川誠、三宅伸治によるユニット。それぞれフォーク、ロック、ブルースの王様というわけでこの名前になった。

企画を耳にしたときは、三宅さんのプロデュース、つまりは人と人とを結びつけるセンスに驚いたものだ。驚いたといえば、ステージでは鮎川さんが歌う友部さんの<一本道>には、びっくりした。フォークソングとは一番遠いところにいるように見えていたからだ。

“友部が歌う<大阪へやってきた>は最新型が一番すごい”と
評価していたのも鮎川さんだった。
ジャンルや過去や理屈でものを見ない。
いま、そこで表現しているものを見る。
人間に相対したときもそうだったのだろう。
素直な心持ちがなければ、なかなかできるものではない。

3人でいっしょにやった時、友部が、あの時代の歌を同じ声で歌って感銘を受けたんよ。それで急に、友部と三宅と俺が変わらずにやってきた音楽と、その生き様にしみじみと感動した。コロコロ変わったのならそうは思わなかったけど、ずっと自分のやれることを精一杯やってきたからね。それこそがロックだという感じがする。

『ロックジェット』2019/vol.75 「友部正人、三宅伸治、鮎川誠によるスリー・キングスがやってきた」(藤竹俊也・佐藤睦)

純粋に、ただただ好きを生きる


鮎川さんの姿勢を表すとして、音楽ライターの小尾隆さんによるこの言葉も印象に残った。

「たとえヘヴィメタのようなあなたの好みではない音楽でも、それが好きっていう気持ちは心の一番きれいな状態だからdisってはダメだよ」鮎川誠さんは暗にそんなことを仄めかしたらしい。(2023.1.30のFacebookより)

フラッシュディスクランチの椿さんからのまた聞きと断りはあったが、誰からであるにせよ、鮎川さんが生涯“好き”な気持ちを大切にしていたことが偲ばれる。小尾さんは「生涯好きなことを貫き通した人ならではの思慮深さ」と表現していらした。

「そんなの聴いてんの?」と斜に構えてしまうことも多い私にとっては痛いひとことでもある。

誰だってそうだったはず。最初にロックをスキになったとき、ブルースを好きになったとき。すごく純粋にただただ好きだった。だけど好きを守ろうとして頑なにバリアを張ったり、頭でっかちになるってことはありがちだ。
それに対し、鮎川さんはなんの理屈もなく、“好き”だというあの気持ちを生きられる人だったのだろう。

思い出は数え切れない。
ニューオーリンズがハリケーンカトリーナに見舞われた際、小さなライブハウスで開いた応援ライブにも夫婦で快く駆けつけてくださったり、ご近所ということで、下北沢音楽祭のフラッグに揺れるレスポール。妹尾隆一郎さんのお別れ会でのコメントもい温かいものだった。

その中でごくごく個人的に胸を打った場面を最後に書いておく。
シーナのお葬式に参列したときだ。「書いてくれてありがとう。あなたのは、とてもよかった」と、私がSNSに綴ったシーナさんへの想いを読み、声をかけてくださったときには返す言葉が見つからなかった。

最愛のパートナーを失って身も心も疲れているだろうに、この人は丁寧に一つひとつのメッセージに目を通している。
そればかりか穏やかに相手の目を見てお礼を告げている。

こっちが慰められているような気持ちになった。

気持ちののりしろが広くなければ、人と触れあうことはできない。鮎川さんは確実に、のりしろの広い人だった。

「R&R」のない人生なんか、考えられんよ。人間の芸術や歴史をいくら探しても、これ以上素適なものはない。あるとき、俺の胸の中で「Bomb!」ちゅう音がして、気がついたら、いつの間にか俺の脳髄体内血液すべてが、ロックン・ロールになっとったんよ。

『’60sロック自伝』鮎川誠(CDジャーナルムック/音楽出版社)

私も「Bomb!」を忘れずに、そしてできるだけ相手を認めながら音楽とともに生きていけたらと思う。

鮎川誠さん、ありがとうございました。
シーナとともに天国で安らかに。

葬祭場には部屋から持ってきたという愛用の品々が所狭しと飾られた。このコートは鮎川さんそのもの。これを着てあっちにもこっとにも行ったんだろうなぁと想像して楽しく、そして寂しくなった。


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