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たらまのおとうと多良間島に行ってきたその3 多良間島 見学編

がんばれプロペラ!多良間へGO!

朝7時に起きて、あちこちの充電を引っこ抜きパッキングする。
パッキングは大の苦手だ。小学校のとき落とし物には、全部わたしの名前が書いてあったという。名前を消したい。

指差し確認で部屋をあとにし、朝8時前に丸勝の駐車場に集合した。雨は降っていない。

丸勝のエントランスでは、これからロードバイクで出立する男性3人が昨日の晩、雷すごかったですねえと言いながら念入りにコースを確認している。

皆さん二日酔いもなく、それぞれのクルマに乗り込む。

抗原検査キットを渡されて15分云々と言われたので、あれぇ、15分もくわえていなければいけないのかと、くわえながらもごもごしていたら、だ液を取得してから15分であった。

書いてあるでしょ! と失笑される。

ドキドキワクワクの搭乗直前。
ジャンプしたいがジャンプにならない。しかし、いつも同じポーズだな。

宮古島から多良間島へは、JAL傘下の琉球エアコミュニケーター。50席ほどのボンバルディアDHC8-Q400CCで飛ぶ。
プロペラ機、タラップ搭乗というだけで、飛び上がるほどうれしい。

離陸し、車輪が格納される瞬間を食い入るように見つめる。
おおらかに回転する黒いプロペラ、機体に打たれたボルトの並ぶ様も美しい。

がんばれプロペラ! かっこいいぞボルト! (見えてるのは宮古島)

飛行時間は20分ほどで、フライトアテンダントさんの仕事量を案じたくなるほど、あっという間だった。

多良間空港棟はちょっとした合宿所かアパートのようにも見える
焦らなくてもすぐ荷物がわかる。モニターでは多良間の観光が紹介されていた

こじんまりした空港だから荷物のコンベアも一般の(たぶん)1/6ぐらいだ。

舞い上がったのかしら。サクマさんらが手荷物を受け取らずロビーに出てしまい、ハナちゃんが釈然としない表情で、みんなの分までスーツケースを待っている。
ガラスの向こうではおとうが、エガミさんにインタビューを受けていた。エガミさんは、おとうのドキュメンタリーを製作中なのだ。そんな彼をおとうは「監督」と呼ぶ。

コンベアの横っちょの長机には「ワンちゃん、ネコちゃん、長尺物等お引き渡し場所」とあり、いぬ、ねこと脚立のイラストが描いてあった。そんなに脚立を運ぶ人が多いのだろうか。

「ギターもここだよ。ギターは長尺物だね」
とからかっていると奥の扉があいて、空港のスタッフが本当にギターの格納された箱を置いた。これからギターは長尺物と呼ぼう。

脚立を中心にイヌ、ネコ、イヌ、ネコ

まずは多良間そば

島ではクルマ3台に分乗する。
わたしは勇造ファンのM夫妻、カラスさんと一緒だった。こうした段取りも、事前にサクマさんが決めてあるからスムーズだ。

2日間、2階建てのCOCOハウスにお世話になる。
部屋は畳敷きの和室。テレビ・冷蔵庫・エアコン・ハンガーラック、ちゃぶ台サイズのテーブル。バスタオル・タオル・歯ブラシは部屋のカゴに入っていた。
トイレとシャワーは共同で一旦扉を出た中2階と1階を使う。

電源に支配された女として気になるコンセントは二口1か所だけ(テレビと冷蔵庫を引っこ抜けば別だが)。Wi-Fiはあるにはある。

荷物を置いた後、全員で食堂に集まり、頼れるサクマリーダーより今後の予定および諸注意を受ける。もはや合宿である。

「昼メシは、たねび食堂に行きます。ただ密になるので、グループごとにちょっとずつ時間をずらしましょう」

カラス号で出発、と言いたいところだがM夫妻が気を遣って運転を代わってくださった。観光マップを広げてはみたものの、目印が少ないこともあり、どうも方向感覚がつかめない。

ハンバーグのような形をした多良間島には山もなければ、川もない。集落を出れば、ただただ平坦な畑や牧草地?が広がっている。たまにすれ違う車は、軽トラばかりだ。

「食堂なんてないですねえ」
「このへんとしか思えないんだけど」
ほぼお手上げのように思われたそのとき、「あっ!あった。あれだ!」と大声を出してしまった。

一度通り過ぎた「たねび食堂」は、背後から見たらどう見てもコンテナか倉庫にしか見えない。だが中に入ると天井は高く、しゃれたカウンターもある。

注文は多良間そば一択。コーレーグースをひとふり。
あぁ、おいしいなぁ。もう、ずっと、そばでもいいなぁ。

地元の食材をつかった多良間そば。肉はもちろん、ねりものがおいしい

たねび食堂は、今年2月にオープンしたばかり。
高齢化で次々に食堂や惣菜店が閉店する中、島民が待ち望んでいた店なのだそうだ。

夫妻はこれまで、村仲筋で刺し身店を営んでいた。高齢化が進む中で島内の食堂や総菜店が閉店していった。「温かい物を手軽に食べたい」との住民の希望に応えようと開店した。そばの他にも旬の地元の食材を使った総菜も販売する。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1374570.html

琉球新報

時間をずらしたはずなのに、結局我らが団体さんはみんな一緒になってしまって、店を占拠する形になってしまった。
それでもって、どうもそばは売り切れてしまったようだ。

最後に滑り込んだのは、カウンターに座った若いおにいさんだった。常連さんのようだ。
「ありますよ」と店の人に声をかけられ、ほっとした背中にはJALのロゴがついている。整備士さんかな。

売り切れを告げられ、帰って行くお父さんと子どもたちもいた。今日は土曜日。あれから父子のお昼ごはんはどうなったのだろう。

島の人があたりまえに予定していた昼ごはんを、皆でたいらげてしまったような、ちょっと後ろめたい気持ちになる。

もっと知りたい多良間


さて、お腹が満たされたところで、サクマリーダーおすすめの「ふるさと民俗学習館」を訪ねることにする。

ところが。
「あれー、昼休みだって」
きっと家に帰って昼ごはんを食べるのだろう。

午後1時まで、近くの八重山遠見台で時間を潰す。

展望台ではなく「遠見台」っていう名前がいい。
17世紀ごろ、船舶の往来や外敵を見張った初代は今は土台だけ。隣に立派な遠見台が立っている。立派なと書いたが、手すりや壁の具合からして、立っているがままといった方がいい。電波塔を除けばおそらく島一番の高さだろう。非常を報せるためのものなのか、てっぺんには最近は搗いた形跡のない鐘もあった。

螺旋階段を上がると「おお!」だれかれとなく声をあげる。
ぺったんこの島は遮るところもなく360度が海だ。遠くには大きな船の影。水納島も見える。

こうしてみると人の気配がある集落は、ほんの一部。あとは畑と、なんとはない緑が広がっている。

おとうはこの島で育ったんだなぁ。

時間を忘れて 多良間の歴史


学習館に戻ると、昼ごはんから戻ったのだろうか。女性の職員が笑顔で迎えてくれた。

学習館の展示は時間を忘れるほど興味深かった。

貝を使った食器や、水筒、一人前の女性を示す「ハジチ」と呼ばれる刺青とその文様。葬儀の風習、昭和のはじめ水道施設ができるまで洞穴にたよっていたこと。それからそれから昨日見かけたチョウチョの名前まで。

急須の代わりのブラヤッカン 

とりわけ食生活は、私を驚かせた。

○紀元前1500年頃。イノシシやジュゴン、魚貝類を食べ始める。

○19世紀頃。一部の家庭で味噌が使用されるようになり、油脂や、酢、塩なども伝わっているものの、海水のみの味付けも依然として続いていた。

○20世紀にはいると大豆製品が多く出回るようになり、この頃から食糧事情は若干緩和される。醤油が一部の食卓に登場するのは大正末期。

○食糧難でソテツの実を食べる。

○昭和38年頃から米を食べることが増える。

「ソテツって食べられるの」と思わずつぶやく。米やイモ、醤油、味噌なんて、内容の差こそあれ、日本中どこでも食べられてきたのだろうと信じ込んでいたけれど、いくら読んでも、食卓の風景が浮かんでこない。


大正時代に信州に生まれた父は、食生活の貧しさをよく話していたが、それとはまた違う偏りがある。

そもそも海抜の低い多良間は、一旦津波などの災害に見舞われれば、はひとたまりもなかったし、干ばつにも弱い。幾度も食糧難に見舞われている。加えて400年もの間、人頭税で苦しむ様は、読んでいて腹がたってくるほどだ。

島の行事、八月踊りはこの人頭税明けを祝って行われるようになったそうだ。
もちろん今は人頭税などないけれど
写真展に映る人は、誰も彼も、それぞれに美しい。

歴史には漂着した、助けた、感謝された
といった類の記録も目立つ。

潮のかげんで、流れ着きやすいのかなぁ。

そういえば玄関脇にある船は、宮城県南三陸町の漁船だった。東日本大震災から数年経った2015年に流れついたという。

南の島と東北との縁は深い。多良間村と岩手県宮古市は姉妹都市。安政6年(1859年)に宮古の船が76日間も漂流して島に漂着。しかし島の人が手厚くもてなし、乗組員全員が無事帰還した歴史があるそうだ。

余談だが、島から帰りバーでたまたま一緒になった女性が、宮古市出身であった。彼女は小学生のとき、学校が募った希望者と船で宮古島に行ったことがあるという。確か4日間かかったと聞いた。

多良間方言(たらまふつ)と呼ばれる独特の方言があるのもはじめて知ったなぁ。

「り゜」だの「「イ゜」だの、初めて見た。
おとうに尋ねてもよくわからないし、YouTubeで発音してるのを見つけたけど、それでもまだわからない。

写真を撮りメモをとるのも疲れたので、
何か一冊にまとまっているだろうと事務室を訪ねてみたが、全貌を示す資料はなかった。

年表が載っている「たらまの歴史」を買う。
A5サイズほどの本なのに、職員さんは丁寧に村の茶封筒に入れてくれた。

○「よそもんがきたぞ」と ヤギは見た


ビンダに一斉に見られた

そうそう、ヤギにも会ったんだ。
島の言葉では、ピンダという。

「あぁ、ヤギ!ヤギ!野良ヤギ!」
と指さすと、道の真ん中にいたピンダたちが「ヤギだってさ。ヨソモンが来たぞ」とばかりに、一斉にこちらを見た。

そもそも野良ヤギではなかった。
草とりをさせようというのか、数メートルの間だけを行ったり来たりできるようにつながれているのもあった。
子ピンダは放し飼いだが、親にぴったりくっついている。

写真とりますよ~。迷惑そうなヤギたちにいちおう断りを入れてスマホを向ける。

帰りに、今夜のつまみを仕入れるため、スーパーへ。
と言っても、島には中央スーパーと向かい合ったAコープの2軒しかない。コンビニもない。
お金を引き出すとしたら、郵便局かAコープ隣のATMだろう。

中央スーパーの半分は、ホームセンターのような品揃え。男物のボクサーパンツはすべてLか、それ以上しかなかった。

お菓子を選んでいた小学生くらいのきょうだいは、私たちを見かけただけで、マスクの下でも明らかに顔色を変え、陳列棚の前を離れた。

沖縄はコロナの新規感染者が減らず、数日前に感染警報となってしまった。そのため人口1000人ほどの島では皆ピリピリしているという。

ヨソモンとは私たちのことなのだ。

食事処の少ない多良間では宿の食事も楽しみのひとつ

それでも宿に帰ると夕食の支度ができていて、心づくしの料理にヨソモン気分もやわらいだ。

島の味もあれば、子どもも食べられるチーズインハンバーグも。「ながらみ」は、千葉育ちの私にとって親しみのある貝だけれど、これは大きい。

ミーバイのお刺身、アーサ汁、島カボチャ(チンクワー)の煮物ほか、私が席に着く前に宿の方が説明してくれたらしい。それを、はなちゃんにまた説明してもらったのだが、なんだか分からないうちにすごいね~と言いながら、食べ始めてしまった。

さぁ、お腹いっぱいになったところでライブだ。

合宿所?となったCOCOハウスさん


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