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これは令和のトー横キッズ・ロミ 火の鳥 エデンの花感想

 火の鳥エデンの花を土曜日に見てきました。映像として相応にきれいになっている部分がある一方で、倫理的な面もあって色々と削った結果、ロミが非常に軽くなってしまったなと。
 まとめて書いてみるのが難しかったので、とりとめもなく書いてみます。


映像的にはそれなりによい

 エデン17に降り立ったジョージとロミが、引いた絵の中でくるくる踊るところとか、絵としていい部分は所々あったと思います。特にこのダンスのシーンは「ああ、やっぱり手塚作品の延長線上のものだな」と思いました。
 手放しによかったと思うのは、ロミたちが地球への度の途中に立ち寄った無機質星ですね。原作だと「西部劇の悪役そのものの面をしていやがる蛇」といった漫画的表現の範疇なんですけど、これを異様な植物にしたことで、よりグロテスクさが際立ったんじゃないでしょうか。この植物のタッチだけ明らかに違ったり、CG技術の進歩も相俟ってよかったですね。個人的には捕食星とかも見てみたかったですが、時間の関係上しょうがないですね。

演技の酷さ

 さて始まってしばらくして真っ先に思うのは「おいおい、なんだいこのジョージは」です。酷い。声優原理主義者みたいな思想はないですが、それでも酷い。EDロールを見たらジョージは窪塚洋介だったわけですが、この人普通の芝居だったらこんなに酷くないでしょう。もっと自然にできなかったんですかね。
 また、コムもちょっと…。別に聞き取りずらくても演技の範疇だと思えばいいのですが、演技ではなく単に子役故の活舌の悪さみたいのが際立って、なんというか…。「劇中の台詞はすべて聞き取りやすくあるべき」とは言いませんが、せめて「演技故に聞き取れない部分もある」くらいの範囲に収めてほしかった。子役を据える以上はしょうがない部分かもしれませんが、それでも子役に拘泥する理由はなんですかねと思いました。
 この辺は全般に、キャスティングや演技指導がちゃんと仕事すればよかっただけの話でしょう。
 反して、牧村役の浅沼さんや、ズターバン役のイッセー尾形はよかった。いやまあ、お二人とも流石に比較対象がおかしいと思いますけど。

「執念」の削除と言いようのない軽さ

 水の掘削作業中にジョージが死に、ロミが息子との近親相姦で子孫を残そうと決意するところは原作と一緒ですが、細かい箇所が異なっています。
 例えば、原作ではお腹の中の子供の性別は知らないままジョージは死亡、産まれた子供を見て「この子がエデン17最後の住民になる」と悲嘆にくれた後に、ロミが子孫を残すことを決意するのですが、映画では、ジョージが死の間際にロミに子供の性別を尋ね、男の子と聞いて「よかった」と安心する台詞がわざわざ挟まれています。さりげないけど、近親相姦を暗喩する台詞が、わざわざジョージから出ているんですよね。ロミがその言葉に引きずられるような描写はないんですけど、作中で真っ先にその考えを閃く役割が、さらっとジョージに移されています。
 また、僕は、映画でロミがある程度まで息子・カインを育てたところで驚きました。「ロミ自らが育ててしまうと、この後の近親相姦が生々しいものになるのでは」と心配していたのですが、結局はトラブルにより、未遂に終わりました。好意的に解釈すれば「幼児まで育ててもなお、自分の子孫を残すことを決意した」という描写なのですが、むしろ「幼児期のカインとコムとを重ね合わせて、地球へ帰ることを決意するキッカケ」に使われているんですよね。だからやっぱり、ロミを極力近親相姦から引き離そうとしているのは変わらないと思うのです。
 といったわけで、目覚めたロミが見たのは、息子・カインとムーピーの妻の子孫が作ったエデン17の街でしたというわけで、ロミの覚悟とか執念とか、バッサリなくなっています。とにかく、ロミ周りが軽くなっている。というかむしろ、チヒロのところで後述しますが、「実は優秀な遺伝子として集められた個体の一人だった」みたいな設定が盛られているのが気になる。それいりますかね…。令和の世に受け入れられるには、そういう「なろう」みたいのが必要だったんですかね。

2つの故郷の軽さ

 そしてもう一つ、バッサリ行っているのは、エデン17への愛着です。原作ではそこまでの執念で子孫を残した星を愛するのは分かるんですが、映画だと(原作があるから余計にですが)「目覚めたときにいきなり発展していた星に、なんでそんなに愛着持つのか」というのが全然分からない。本作品の重要な要素は「実はエデン17にももう一つの望郷がある」ってことなんですけど、それすら「何でロミがそこまでエデン17に愛着を持つのか」っていう理由が軽くなってしまっているんですよね。
 せっかくもう一つのテーマを入れたのに、それがロミ周りを綺麗にした結果、全然軽いものになってしまっています。
 原作だとロミは地球で死ぬのですが(版によって異なりますが、牧村に撃たれるのと、若返りの副作用によるのがありますが、いずれにせよ死ぬ)、映画だとロミは「やっぱりエデン17が私の故郷」みたいに言い出し、戻ってしまいます。ドリフの舞台転換の音楽が聞こえてきそうな、故郷の島が大爆発する映像とともに。
 いやいやいや、お前故郷を大爆破して、コムは牧村に撃たれて花と化してるのに「やっぱエデン17が故郷だわ」ってどういうことやねん。まだ「エデン17は自分が必死に守り通した星」みたいな執念が描かれていれば分かるんですが、そういうのがないからロミが思い付きで行動しているようにしかみえないでんすよね。
 ちなみに牧村は、ロミの故郷大爆破に巻き込まれていて、逃げているように見えないんですが、これ宇宙編についてどう考えているんですかね…。宇宙編の牧村は、永遠に罰を受ける猿田という火の鳥全般を通す男のキッカケなんですけど…。

牧村とチヒロの描写

 ロミの遺体をエデン17に届けるという役割がなくなったものの、本作で割とまともに描かれていたのは牧村だと思います(あとはカイン?)。「最後に星の王子さまを朗読するアレがいいんだ」という方には本当に物足りないと思いますが、超個人的な意見としては、宇宙編であれだけ狂うにしては、原作望郷編最後の牧村は綺麗すぎると思っており、これくらいがいいかなと。
 ロミへの恋慕という要素を残す必要がないため、酔っぱらった牧村がロミに迫るときに、宇宙編に出てくる牧村を誑かした女をダブらせる演出は非常によかったと思います。「目の前の女が若返って美しかったから手を出してひっぱたかれた牧村」から「いつまでも最初に誑かしてきた女を忘れられない牧村」になっています。まあどっちもちょっとダメなんですけど、少なくとも本作の中では、牧村五郎という男の描き方は一貫するようにはなっていたなと。ただ、原作の宇宙編を読んでいないと一切意味不明の演出ですから、これはどうなんだという話はあるでしょうね。
 次にチヒロですが、本当に好き嫌い別れると思います。ある種のファンサービスと、いきなりこの役割にチヒロをぶちこんできたことの違和感、どっちかでしょうね。ただ僕は、少なくともロボットであって、レオナの視線で見ているわけではない以上、チヒロの外見は常にロボットとして描いてほしかったし、声もロボットであってほしかった。「ロボットの方が人間らしくなってしまっている」というような可笑しさもこの作品の一つの要素なのだから、そこは徹底してほしかったな。
 こう考えると、牧村とチヒロについては、原作読者へのファンサービス、あるいは原作があるが故の遊び心みたいなのが、ちょっと行き過ぎているのかもしれませんね。

まとめ

 というわけで、執念やら何やらを取り去った結果、刹那的な行動で故郷の島もエデン17も不幸にする女ロミだけが残るという、なんともな感じな映画でした。エデンの花では、最後にムーピーにジョージに変身してもらって終わってますからね。ロミをそこまで即物的にする必要ありましたかね。少なくともそこは霊魂のジョージにしてほしかった(原作だと霊魂(手塚先生のいうコスモゾーンだと思いますけど)のジョージとロミが再会を喜ぶ会話がある)。僕、最初ラストシーンは原作同様霊魂のジョージが迎えてくれたエンドだと思っていたんですが、映画館を出てふと「あれ、女王の姿が出迎えてたってことは、あれムーピーかよ。趣味悪いな」と思いました。
 令和のトー横キッズみたいな、個人主義で、刹那的で、即物的で、未来の展望がない世界では、こういうライブ感で星すら滅ぼす女・ロミみたいな方が合ってるということなんですかね。


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