逢坂冬馬「同志少女よ 敵を撃て」感想

 アガサクリスティ―賞受賞とか本屋大賞ノミネート(本屋大賞とりましたね)とか、そういったものを気にせずに読んでほしい作品である。誤解をおそれずに言えば、本作はラノベである。

 独ソ戦のさ中、ドイツ軍に村を急襲されつつも単身生き残り、女性だけの狙撃部隊の隊員候補として拾われた少女が、彼女の村を襲ったドイツ軍に、そして彼女の母の尊厳を奪った上官に、復讐を誓う物語である。

 日常が奪われ上官への復讐を誓うところで第1章が終わり、この間わずかに50頁ほど、物語に読者を引き込む構成力は高い。話は狙撃手の学校から初めての戦場、ウラヌス作戦からケーニヒスベルクへと移っていくが、随所に戦況が挿入され、主人公たちの置かれている状況や作戦、彼らの狙撃の状況は精緻に描写されている。所謂「なにやってるかわからない」ような描写はほぼ皆無である。状況を俯瞰的に表現する筆力は高い。

 ただその描写力の高さ故か、やや「思った通りに状況が動いている」ように見えやすい。もちろん、主人公の仇敵であるドイツ兵狙撃手との間では、一進一退の攻防が繰り広げられるのだが、どうもそれ以外の標的との間では、やや「状況がうまくいきすぎている」感が強い。比喩がよくないが、ガールズアンドパンツァー同様に敵が思った通りにこちらの策にはまってくれる場面が多い(この点は朝日新聞の書評でも指摘されていたが)。

 そして非常に惜しいと感じるのは、味方の女性狙撃部隊の面々が「キャラが立った」人物ばかりという点である。上官を慕い主人公を目の敵にする貴族の娘、無口だが狙撃の腕が高いカザフスタン出身の少女、人懐っこいが裏の顔を持つウクライナ人、包容力があるが精神的にもろいお姉さん、口が悪いが一本筋の通った衛生兵の少女、無機質である必要はないが、どうもこうもキャラが立ちすぎている。

 人物描写が細かいことは責められるべきではない。ただ、本作では度々少女たちに「何のために戦うか」が問われている。主人公はその問いを繰り返すうちに戦う意義を見つめ、それがクライマックスに繋がるのであるから、主人公の描き方は正解だったと思う。他方で、他の少女たちもしっかりキャラ立てて描いたのに、どうも上記の問いかけに触れた描かれ方はしていない。物語の本質部分に踏み込まれていないのに、妙にキャラ立ててしまったため、アニメというかラノベというか、そういう感覚がやや強い。せっかく細かく少女たちを描いたのであるから、もっと「なぜ戦うか」の深淵にまで彼女たちも踏み込ませてほしかった。

 他方で、スターリングラード攻囲のなかで生き抜くため、ドイツ兵に体を売り、それを自己正当化して遷ろう女性など、戦争の中で個人として生きていくことの難しさや意義というものはしっかりと描けていると思う。上記のキャラクター的なところを責め立てて、「骨太な戦記じゃない」とする論評を某所で見かけたが、表紙に狙撃手の少女の絵がでかでかと描かれている時点で、そういう戦記を求めるのはお門違いだろう。そういうのがよければ「ベルリン陥落1945」でも読んでおけばいい。

 前述のとおり、アガサクリスティ―賞だの本屋大賞だの、そういったものにとらわれずにふと読んでみると、十分読み応えのある小説だと考える。特に重篤な軍オタでもなければ、アニメオタクならば大変なキマシ小説としても面白く読めるのではなかろうか。

 ただ、いずれのスタンスで読んだとしても、タイトルの意味がわかったときの感慨とやるせなさは、きっと裏切らない。

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