見出し画像

人をゆるし、ゆるされたいと願う

先日の教会の勉強会はとても学びがあった。考えていたのは、人が人をゆるすことについて。

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(後略)

マルコ2:5-10

状況説明をすると、中風の人というのは、手足が動かない人のことを言う。先天的なものだったり、後天的に麻痺してしまったり、まあ理由は問わずそういう状況にある人のことらしい。当時の考えでは病気は罪のあらわれであり、神が赦すまで治らないとされていた。つまり、病が癒やされる=赦されるということ。

4人の男が、中風の男をイエス様の元へ連れてきた。なんと、この時人がいっぱいで入れなかったので、屋根を破壊してイエス様の前に男を吊り下げている。やりすぎだろ。それを見たイエス様がその信仰心故に赦されることを伝えたのだが……という話。


律法学者(ユダヤ教の律法に囚われて、律法を守ることこそ一番!と考えていた人々)たちは、罪を赦すことができるのは神だけだと考えていた。しかし、神の子たるイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」とおっしゃる。

人の子、という言葉はイエス様を指す言葉として使われることが多いけれども、ここでは私たち一般人も含め、人の子、なのではないかと先生がおっしゃっていた。主の祈りにもそれがあらわれている。主の祈りは、唯一、イエス様そのひとが弟子たちに伝えたとされていて、そこにはこうある。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

私はカトリックなので、プロテスタントの方であったり、他の宗派の場合は多少訳文が異なることはあるのだけれど、意味合いは共通している。イエス様は、わたしたちも人を赦すことができる、と、はっきりおっしゃっているのだ。

しかし私は以前、こうも思っていた。私はとてもとても赦されたいんだけど、私のすべてをご存知なのは神しかないのだから、神以外の誰が自分を赦せるのか──いや、赦すことはできない。だから、私はもう、私自身を赦そうともがかなくてもいいのではないか。

矛盾のように思える二つの考えの中で、ひとつヒントになるものがあった。それは私の好きな祈祷文のひとつ、神を愛する人の祈り(愛徳唱)。

愛の源である神よ、わたしは、心を尽くし、力を尽くして、唯一の神であるあなたを愛します。また、あなたへの愛によって隣人を自分のように愛します。

私たちが隣人を愛せるのは、神を愛しているから。ならば、私たちが人を赦せるのも、同様に、神に赦されるから、そして神の赦しを心から信じているから。そうだ。だって、神がお赦しにならないことがあれば(そんなことはないが)、それをどうして私たちが赦せよう。そして、神がお赦しになるというのに、どうして私たちが赦さないでいられよう。

私は、最初から無理な赦し方をしようとしていたのがよくなかった。私は私が神に赦されると心から信じれば、それ自体が、私を赦すことに繋がるのだと気づいていなかった。けれど、楽になったのは、あのとき私自身を赦すことができたから……自覚はなくとも……それに気がつくことができた。

きっと、まだ気がついていないことがたくさんある。ひとつ気がつくたびに、私の人生は豊かに満ちていくのだという確信がある。信仰生活の実りに心から感謝している。私は、神が創造されたこの世界を愛している!


あなたが悪に目を留められるなら、だれがみ前に立てよう。
しかし、あなたのゆるしのために、人はあなたをおそれとうとぶ。

詩編130:3-4

勉強会の後のミサの答唱詩編が詩編130だったことが、偶然とは思いたくないほどにうれしく、美しかった。あなたは情け深い神、咎とそむきと罪を赦す者。どうか、私をお赦しください。私も……私も人を赦します。主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い、そう歌い答唱する中で、教会に集い、御ミサにあずかって、神とわたしたちの主イエス・キリストを信じ生きることが、どれほど幸福なことであるかを考えた。

神を信じるからこそ、人は人を赦すことができ、人が人を赦すことができるからこそ、人は共同体の名の下に集うことができる。


勉強会では他にも色々と話したけれど、私の中でひとつ大きなターニングポイントとなりそうなのはこのこと。この感動を、できればいつまでも覚えておきたい。聖書を初めて読んだ翌日のような、心が震えてとまらない感覚がある。私はいつも、みことばに救われている。この心を忘れないでいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?