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覆水不返

先日、人の告別式に参加しました。生前、特別仲が良いわけでは、なかったんだけど、それでも、どうしても悲しかった。涙のうに収まりきらないものたちは、私の目元を静かに濡らすのでした。

わたしは多分、人一倍、死が苦手です。おそらく、理由はシンプルで、身近な死を通して、わたしも傷ついてきたから。誰かが亡くなるたび、その時の苦しみを、己で再度、追体験してしまう。
故人の前で泣く、親族、友人などの、結びつきがわたしよりも強いのであろ人々を見ては、あの場にいるのが自分だったら、とか、いろんなことを考えて、喉奥があつくなり、むせ返りそうになる。

死について、最近はすこしだけ割り切れるようにはなってきているんです。もはや、災害とかの仲間だよね、みたいな話を、最近した。どうしたって、抗えないものなんです。しょうがないんだと思う。
現代に生きる人間たちは、社会という枠に組み込まれる結びつきみたいなものも、強いと思うから、人間が亡くなることは、単純な生命活動の停止だけではなく、その人間が社会において死ぬことも意味するのでしょう。今回参列した告別式、仕事関係で知り合った方のものだったので、参列した人たちを見ながら、なんとなく、そう感じました。この輪の中から、この人は急にいなくなってしまったんだなあと。みんな頭が追いつかなくて、悲しんでいた。知らない人も、知っている人も、私も。

人って、ちょっと知能が高いおかげで、たくさんの楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろんな感情を経験し、記憶しては、また新たな感情を抱いていく。会わない間にも、他者への感情は募り、変化してゆき、コミュニケーションを通して、態度なり言葉なり、それぞれ「伝える機会=会える機会」をまた楽しみにしながら、生活するような感覚があると思っています。それが突然、全部なくなってしまう。その人に会うことも、話を聞くことも、言葉を伝えることも、それらが叶わなくても、陰から応援することも、幸せを願うことも、なにもできなくなってしまうのだ。
二度と見られない表情や、その人の発した言葉、今まで当たり前に存在していた時間に想いを馳せると、心があふれてしまうのですね。本人にはもう伝えられないのですから。私たちは、これからも更新してゆくはずの「時間」が、彼らには存在しない、という事実が、なんだか許せないんです。ああ。でもしょうがないんです。これは災害なんです。誰に怒ることもできなくて、多分誰も悪くなくて、受け入れることしかできない。我々って無力です。人のためにできることなんか、本当はひとつもないんだよ。

告別式って、故人のためじゃなくて、生きている人のためのものだって、言っている知人がいました。死んだらそれまでだって。そりゃコミュニケーションの手段がないんだから、なにも届くわけないもんな。そう言っていた、その人も、もう亡くなってしまったんだけど。
私はすべて悲しいんだ。これまで亡くなっていった、身の回りの人たちのことを思い出すたびに、胸がいっぱいになっちゃうんだよ。ねえ、本当に届かないのかなって、聞きたいよ。教えて欲しい。今もどこかで本当は生きてるんじゃないの、とか、生きていない人の魂や感情って、どこかにいないのかなって、その人が存在すると証明できるものを、探したくなっちゃう。
でも、心って脳みそと同じだから、肉体が終わってしまった時点で、きっとどこにもない。自分の記憶や、手元に残った無機物だけが、その人の魂のかけらのように感じます。生きている間は、その人だけが、本物なのにね。おかしな話です。
そう考えたときに、なんか虚しくなってしまって、故人のためにしたいこと、たくさんあったのに、結局なにもできていないんだ。多分きっと、かなしみに蓋をするように、逃げ続けている。忘れたくもない、でも考えても、どうにもならないから。

数年前に亡くなった、大好きだった友達の誕生日、毎年そわそわしちゃうんです。つい先日も、ああ、今日だなあって、ただそうやって、ワイプのように、一日中、ぼんやりと思いながら、ただ過ごした。
どんな風に生きていくのか、すごく興味の尽きない人だった。存命だったら、今頃どんな表情で、どんな服を着て、なにをしながら生きていたんだろう。きっと、ずっと私の憧れだった。たくさんの時間や感情、知識、共有してきたはずなのに、なんで私を置いていくのかと、真剣に思った。そんなに強い感情が、自分の中にあるなんて、気づかなかったよ。

その人が亡くなる前日に、一件だけ入った着信を、私は取らなかった。疲れていたんです。彼女の機嫌を損ねないように、関わることは、互いにとって辞めた方が良いと思ったから。気難しい子だったんです。私はもう関わっちゃいけないのかなって、その子に対して、はじめて諦めた。
手を緩めた瞬間に、いなくなってしまった。私のせいだなんて、烏滸がましいことは思わないけど、彼女が生きる希望を捨ててしまう原因の末端に、自分がいたとしたら。そう考えると、たまらなく悔しくて、しばらく、涙を流す以外のことは、できなくなってしまった。

彼女は私に、なにか執着していたように思えます。「私が教えた料理を他の人に作ってあげるみことちゃんなんか嫌い」って言われたことが、強く印象に残っていて、料理をするたびに胸がちくっとする。お店で料理するとき、実家で料理するとき。私は人のために料理をすることが好きだけど、好きな人間の嫌がることを、したくないじゃないですか。どうしたものかなあと、困ったことを思い出した。
そういった類の呪いは、確実に存在していて、いちいち思い出すと、とても辛くなってしまうから、なるべく考えないで暮らしている。でもきっと、まだ、なにひとつ納得できていないんだよ。なにもすっきりしないまま、今日この日を迎えている。なにも伝えられなくてごめんって、ずっと思っている。こんな思いするくらいなら、嬉しいことも、悲しいことも、全部伝えて、殴り合いでもしておけばよかったと、本気で思っているよ(それはどうかな)。

私も生きていくのを、辞めてしまおうかと迷ったことなど、何度もあるけど、死にそうなほど心が痛くても、死なない現実を直視した時に「亡くなった人はもっと苦しかったのだ」と思った。そう思える間は、私は、生きることしかできないんだろうな。人生で、死を選択せずに、生きていく覚悟はしてあります。
誰かが亡くなるたびに、感じた後悔、学び、いろんな感情があるよ。それらを抱えながら、この先も二本足で立つことは、彼らに対する贖罪だったり、文字通り、自分が「生きていくこと」なんだと思う。

ギリシャラブのライムライトと言う曲の歌詞に「みんな中身は空っぽ 焼かれてから気づくのさ」とあります。最近はずっと、その一文が、頭から離れない。考えたってわからない。焼かれるまで暮らすしか、ないんだろうなあ。


ここに投げられたお金を、酒代に使ってしまうような私で、申し訳ありません