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謎の建物の正体を追え!⑤創立120年の回生病院


・戦禍をくぐり抜けた3代目

大正15年から昭和初期の組織変更を経て、回生病院は「株式会社互恵会」として利益を配当しない株式会社として日本でも稀有なかたちで総合病院としての活動をはじめます。

しかしながら心新たに医療に励むなか、病院も次第に第二次世界大戦の戦禍に巻き込まれていきました。

昭和20年 5月1日の互恵会、株主総会において、病院経営権、建物その他設備一切を日本医療団に提供することが決定された。
6月1日ついに病院周辺が大爆撃にさらされた。病院の受付に爆弾が投下されたがこれは幸いにも不発で難を逃れることができた。
(大阪回生病院創立100周年記念誌 より)

この焼夷弾は受付側のガラス張り天井を突き破って落ちたそうです。不運な火災にあってきた回生病院本館は3度目の焼失を免れて、出征しなかった僅かな職員のみで守り抜かれました。

上記引用の通り、建物から医療器具まですべて日本医療団に引き渡す予定でしたがそれも8月15日の終戦によって話は白紙となりました。引き渡し予定日はたった5日後の8月20日でした。

かくして戦後も昭和41年の病院移転まで、3代目本館をはじめ回生病院の建物群は中之島に在り続けたのです。

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・現在の回生病院

令和2年現在、大阪回生病院は新大阪駅から連絡橋を渡ってすぐのところに本拠を置いています。今の建物は2005年に移転・再出発した5代目です。

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2階入り口を入ってすぐ左手に胸像が飾ってあります。菊池篤忠初代院長が、晩年に沿革史と共に作らせた自身の像です。

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この胸像を製作したのは難波橋のライオン像を製作した天岡均一と言う彫刻家。

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難波橋のライオン像

前後の製作時期を考えると、難波橋の設計に関わっていた宗兵蔵が天岡との縁をつないだ可能性も十分考えられるかと思います。

分院である池田回生病院にも同じような胸像がもう1つあり、これも天岡によるものだそう。

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病院の5階から屋外スペースに出ると、小さな鳥居が現れます。

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この回生天満宮は大阪天満宮から分社したもので、今も8月25日に回生天満宮御霊祭として祭事が行われているそうです。


そして再び1階。受付のさらに奥にある細い廊下には、私達が追いかけてきた本館の写真が初代から順に大切に飾られていました。

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今回この記事を作成するにあたって100周年記念誌に関する問い合わせをしたところ、大阪回生病院の橋詰管理事務部長をはじめ土居病院長、久富顧問が関心を持ってくださり、写真資料の掲載や聞き取りを快く承知してくださいました。

集めた絵葉書や60年史など病院内に残っていない資料もあった事、今年の120周年も何か出来ないか考えていらした事もあり、これを機会に3代目本館に関する事や当時勤めていた方についても調べてくださるそうです。

解体された近代建築は、残念ながら残せる条件が整わなかった、保存するような動きに至らなかった、どうしようもない理由があっただけで決して価値が見出されなくて解体されたものばかりだとは思っていません。

現病院の方々が改めて往時の建物に目を向けて下さった事で、調べてきたものが無駄じゃなかったように思えて胸がいっぱいになりました。

現在の情勢もあり、時間の必要な調査になりますが今後も当時の建物の様子や逸話が分かり次第追記していきたいと思っています。

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総合病院という特質上、常に最新の機器や設備を取り入れる必要があり、

老朽化した建物の建て替えは院内外の多くの人に望まれたものだったようです。ただ沿革史にも中之島時代の思い出が宝物のように書かれていて、移転した今なお病院内には120年の時間が静かに流れています。

今は姿を消した古城病院が、一枚の絵葉書から始まったこの記事をご覧くださった方の心にそっと浮かんで、少しでも残っていきますように。

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(本文:りせん、編集:田んぼ)



建物全体のお話はここで一区切りです。
また、回生病院と他の人物などとのエピソードも
まとめてみたいと思います。


ここまでお読みくださってありがとうございます。

ご協力頂きました回生病院の先生方、本当にありがとうございます。


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